さて前回も話した通り、今回は1970年代以降、高校に行くことが“当たり前”になった状況がどういう影響を個々のセルフイメージに与えるかを考えていきたいと思います。
心理学者のアドラーは、個人の他者に対する優越感や劣等感がコンプレックス(複合観念)や病理性に深く関わっていると述べています。彼の師匠のフロイドの心理学がリビドー(性エネルギー)に注目し、体の部位や幼児期からの両親の関係性に重点を置いているのと比べると、アドラーの場合は他人との比較、社会との関わりなど、より社会性を重要視した心理学であるといえるでしょう。
今回は優越感の理論を適用して、進学率が高止まりした後長欠率が増えた要因を考察していきます。社会的なものから起因、発生する原因とは違い、主に個人の中にあるものが外からの刺激によって影響されるという説明は、はっきり言って客観的に説得力に欠けることが多いように思われがちです。
なぜなら、その根拠となる「個人の中にあるもの」(この場合は優越感)の重要性や位置づけは個人によって様々であるからです(逆に例えば経済的変化によって、それに適応するために思考や行動パターンもこう変化する、等の言い方の方が一般的にコンセンサスを得やすいように見えます)。何か一つだけ大きな原因、前提があって、それから全てが派生している、という説明の仕方ははまれば大きな共感を得るかもしれませんが、当然ツッコミどころも多く、なんでやねん!、そんなことないやろ!、なんじゃそら!、等のリアクションも引き出します。ただ多くの要因の一つの仮説として、考慮に入れていけば幅広い視点を持つために役に立つかもしれません。
例えばもしフロイドであれば、長欠率の増加の原因は核家族化による幼児期から青年期までの母親と子供の関係性の変化や父親(父性)不在による社会や権威に対する子供の態度の変化が原因で…云々、みたいな感じで分析するかもしれませんが、ただそういう見方もまた興味深いともいえますし、ひょっとすると関連性がどこかにあったり、個々の問題解決のためのヒントにはなりうるかもしれません。
勿論一つの理論のみをもって全てを説明することは不十分ですが、今回は一つ一つの穴を地道に埋め、要因の一つを推測するため、また今回の講義でも出てきた学校が個人に与えていた(いる)“特別な価値”についての議論を深めるため、この理論を応用しながら見ていきます。
もしも高校にいく人数が相対的に少ない場合、高校に行くことが出来れば、他人と比べて自分は人とは違う、という優越感を持てる、という期待感が生まれ、高校に行っても大学に行けばより“特別な存在”になれると期待し、実際に高校にいけた時の経験がその感情を裏打ちします。そのことを達成する手段である勉強に対するモチベーションも高まり、学校に行き続け頑張る動機付けとなり、結果的に進学率が増加します。
しかし進学率が増え、高校に行くことが当たり前になると、高校に行くことは“自分に特別な価値”を与えてくれることは考えられにくくなります。
従って前回のまとめと合わせると、74年に進学率が90%を超えると学校に行くことの“希少価値”がなくなり、学校に行くことが“希望”につながるとは考えにくくなり、学校での努力が「やりがいのある努力」から「不安におびやかされる努力」に変化していき、また皆同じでは自分は特別な存在であるという感覚を獲得することも困難になったように見えた、ので長欠率が増え、現在も増え続けているので、大なり小なりその影響が残っている可能性がある、となります。
このような状況の変化があり、この連載の一番初めに述べたように子供たちが「学校に行く意義」を問い始めたのではないか、というのが今回の講義での大事な論点の一つでした。
では次の論点は「勉強の意義」についてです。