不登校について—「不登校再考」の講義より *7*

学校に行く理由としてよくあげられるのは、“勉強”をするため、というものです。

 では“勉強”をする理由とは何なのでしょうか。

 子供の立場から見ると、前回話したように、高校に進学し卒業するための手段としての“勉強”をする動機付けは進学率の増加で薄まっています。

 もし子供全員がいわゆる“勉強”が好きで得意であれば、その様な状況でも“勉強”をすること自体楽しみに学校に行く子供が多くなり、すなわち出欠率もそれ程増加しない公算が高まります。ところが、出欠率が増えてきた経緯を見ると、どうやら皆が全員“勉強”好きではなさそうです。

 では逆に出欠率が高くなる70年代以前は“勉強”が大好きな子が大半だったのでしょうか。

 講師によると、その頃にも“勉強”が嫌いで苦手な子は沢山いたとのことです。ではなぜその頃は学校に行かない子供の割合が少なかったのでしょうか。

 ここで孔子、いや講師はこう言いました。つまり宗教みたいなものだ、と。

 例えば、我々の大半はお経の意味がわからなくても、お寺に行ってお経を聴きます。なぜわざわざお寺に行って意味も知らないお経を聴くのかというと、自分にとって何か“意味”や“価値”のある体験だと“無条件に”思うからです。

 この“無条件に”というのが宗教たるゆえんと行っていいでしょう。

 言葉を入れ替えると上手い具合に符合します。

 我々の大半は勉強がわからなくても学校に行って勉強をします。なぜわざわざ学校に行ってわからない勉強をするのかというと、何か自分にとって“意味”や“価値”のあるものだと“無条件”に思うからです。

 ではなぜ“無条件”にそう思うのかというと、それは「すりこみ」によるところが大きいと思われます。今回の講義の内容から離れ過ぎてはいけないので、すりこみに関してはまた別の機会に深く考察するとして(根深い話になりそうだな、こりゃ(-д-;))、話を戻します。

 宗教や信仰の特徴としては、信じている者にとっては当然の事ですが、信じていない者にとっては「なぜ?」ということになります。

 この宗教に似た“学校に行くこと自体に価値がある”という考え方が共通前提でなくなると、“勉強”自体の大切さや楽しさがダイレクトに問われることとなります。

 七十年代から今まで長欠率が増加しているのを見ると、どうやら多くの子供にとって“勉強”はそれのみでは学校に足を運ばせる程の魅力はないようです。