秀吉の天下取りの決め手の戦さとなった”賤ケ岳の合戦”の
講座が平成21年11月9日(月)に兵庫県民会館でありました。
講師は、茨木一成氏(日本歴史学会会員)でした。
氏によれば、柴田勝家は負けるべくして負けたとのこと。
すなわちその前年にすでに秀吉は勝利の布石を打っていた由。
まず山崎の地において主君・信長の仇である明智光秀を討ち
取っていることで、この時は一応、信長の三男・信孝が総大将で
あったとはいえ、実質は秀吉の中国大返しによる勝利であること
は明白でしたし、その後の清洲会議(信長の後継者選びと遺領相続)でも、重臣の丹羽氏や池田氏へ事前に根回しもして嫡子相続を主張し、ポイントを稼ぎました。
勝家は、お市の方(信長の妹)と交通の要衝である長浜を獲得したにもかかわらずそこを居城とせず、雪深い北ノ庄(福井)に腰を落ち着けるという致命的なミスを犯してしまいます。
そして、年が明けた1583年(天正11年)に賤ケ岳の合戦が行われましたが、豪雪地帯に住む勝家は一歩も二歩も遅れをとり、また佐久間盛政の命令違反や前田利家の戦場離脱もあって、大垣から52kmあまりを5時間強で大返しした秀吉に敗北してしまいます。
この時は、石田三成等の側近が街道の村々に”食事・水・鎧・武器等々”を準備させるなど、裏方の活躍も見事でした。
後世では賤ケ岳の七本槍等と言って合戦のみがクローズアップされますが、その前哨戦にこそ秀吉の手腕が光っていたわけで、ここに現在の政局運営にも必要なエキスを見ることが出来るのではないでしょうか。