戦国・異才の人々より 「安国寺恵瓊」

平成21年11月10日(火) 兵庫県芸術文化協会が主催する
今回で7回目の「ふるさとの歴史講座」に参加しました。
講師は今回も、茨木一成氏が担当されました。
今回のテーマは「安国寺恵瓊」です。
私も名前を聞くのは初めてで、読み方は(エケイ)と読みます。
講師ももっと簡単な漢字にしたら良いのにと嘆いていました。
 1539年武田信重の子として生まれる。 しかし、1541年
毛利元就の攻撃を受け滅亡してしまう。 安芸の安国寺を
経て、京都の東福寺に出家する。 頭が良かったので、その後南禅寺の住持になり中央禅林最高の位にもついた。 そして、信長・秀吉の運命を予言した書を残した。(このことで後世に名前が残った)。 また、毛利氏の外交僧として力を発揮し、秀吉がこれから躍進することを予測して和睦を取りまとめ、秀吉の信任を得た。 そのころ「恵瓊」は「親秀吉派」の中心的な地位まで登っていた。
 1600年関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将に「毛利輝元」を担ぎ出すが、広家が家康に通じて参戦を拒んだため、参戦することなく終わってしまった。
 西軍の敗北後「恵瓊」は逃亡するが、京都で奥平信昌に捕らえられ、西軍首脳の1人として六条川原にて斬首される。 戦は苦手で、口八丁、手八丁で「あわよくば毛利家を」と考えていた相場師です。
 人の事は冷静に読めますが、自分の欲には勝てず、家康の評価は「悪僧」として惨めなものになりました。 私も大変勉強になりました。