どんな社会を望むのか、ということはディテールを言っていけば人によって千差万別です。
ですので今回は大きくどんなタイプの社会がオプションとしてあるか、自助、共助、公助という三つのトピックを使って考えてみたいと思います。
個人が何か問題につきあたった時、自分で努力して問題を解決をすることを自助、他人と助け合いながら解決をすることを共助、国家や地方自治体等行政によって解決をすることを公助と定義し話を進めていきます。
自助に重きをおく社会では自分自身で問題を解決する能力を求められ、教育においても個人が一人で生きていける力をつけることに重点をおきます。例としては市場中心主義、新自由主義国家があげられます。
ちなみにアメリカの新自由主義(ネオリベ)は、経済はより公正、自由な市場主義(名目上は)で、精神面は教会を中心とするキリスト教(ブロテスタント系)のコミュニティーとNPOでカバーするという(アメリカの)伝統的保守主義に支えられている面があります。
逆に言えば教会や宗教によってコミュニティーを作ったり、精神面をサポートしたりする歴史や習慣がない国で絶対的市場主義を取り入れた場合何か違うもので補填しなければ、人々は誰にも相談できず一人で不安を持ちながら問題に対処せねばならず、社会が上手く回らない可能性があります。
共助に重きをおく社会は、地域のコミュニティーがしっかりとしていて、皆で助け合いながら問題に対処していきます。教育においては個人の能力を高めることの他に、人と良い関係を作ったり、協力しながら問題を解決する能力をつける内容を求められます(もちろん学校内だけではなくて)。
よく昔の日本は良かったと言う時には、こういう社会をイメージしており、正に古き良きニッポンといった感じです。ただコミュニティーがしっかりしているということは、やり方(或いはメンタリティー)によっては、よそ者は入りにくい等の排他性やその集団内で異質なものは無視したりはじき出そうとする村八分や既得権益者が固定する等の現象が起る可能性があります。
市場主義の様に自由に出入り出来るようにするか、条件をつけるにしても公平で透明性の高いものにし、徹底した情報公開を進める必要がありそうです。また自分と違う“他者”を受け入れるメンタリティーを育む教育も大事になるでしょう。
公助に重点におく社会においては、個人に何か問題が起った場合に国が個人に積極的に介入、援助し問題を解決する特徴があります。
個人の問題は社会全体の問題だ、或いはその影響によるものだ、という理屈はある一面正しい(というか私も散々前回不登校の連載の際に繰り返し言いましたが…σ(^◇^;))かもしれませんが、実際に援助するとなると、一部教育(市民自治やメディアリテラシー等に関して)がしっかりしていないと依存心が強くなり、自分は何もせず文句ばかり言う風潮になるという問題と、その援助が的確で適性なのかどう判断していくのかという問題が起る可能性があります。
余談です。この場合の公助の「公」は国の機関や行政の意味が強いですが、本来「公」とは民衆という意味があります。私もよく「公」(おおやけ)という言葉を使いますが、主に人々(日本や世界)の集合体という意味で使います。
話を戻して、通常これらの三つの特徴は、一つの社会において混ざりあっており、どれか一つだけ百%該当するということは考えられません。
この三つの項目はどのような社会が社会システムが望ましいか考える際に一つの指標になるでしょう。またこれらを使いながらどういう社会が望ましいのか考察していきますが、その前に今の教育の目的とされているものがどこまで今の社会に適合しており、また今の教育を続けているとどういう社会になっていく可能性があるのか考えてみたいと思います。