日 時:平成21年12月14日(土)
場 所:兵庫県民会館
講 師:茨木一成氏(日本歴史学会)
天下統一を成し遂げた秀吉は、自己権力を誇示する手段の
ひとつとして大仏の建立を思い立ち、京都の東山に白羽の矢
を立てました。(方広寺)
当時 良質な木材は中国地方に多いとかで、小早川隆景他
毛利家に工事が命じられました。(1586年)
しかし工事途中において、秀吉の周辺に不幸が集中します。すなわち・・・・・
・1590年 妹・旭姫(徳川家康の正室)が病死
・1590年 子・鶴松(母:淀君)が病死
・1591年 弟・大和大納言秀長が病死
・1592年 母・大政所死去(76歳)
等々で、結局 大仏の建立は権力の象徴的な考え方から、身内の供養的な考え方に段々変わってきたようです。
そして1595年に、東大寺の大仏より大きい18mという大仏が完成しますが、翌1596年に大地震が起こり、長年の苦労も空しく倒壊してしまいます。
後年 子の秀頼が再建しますが、これも火災により焼失し、以後は同規模のものは再建されていない由。
権力者・秀吉といえども、天災には勝てなかったということでしょう。