関ヶ原への道

日 時 平成22年1月18日(月)
場 所 兵庫県民会館
講 師 茨木一成氏(日本歴史学会)
 日本史上 最大の戦さである”関ヶ原”への道程の講座でした。
 今迄は勝者の資料による歴史でしたが、江戸幕府が崩壊して
明治に入ると敗者の資料も出てきて検証も行われている由です。
 ”関ヶ原”までの経過は権力者(秀吉)が死去し、後継者(秀頼)
が若いことから権力闘争が顕著になってきたことに始まります。
 秀吉は、死の直前に将来を憂いて「五大老・五奉行制度」を置きましたが、結局あまり機能せず、自然消滅しています。
 秀吉が亡くなった頃、主な武将は朝鮮半島に出兵しており、これらの人の帰還を待って体制を整え、行政は伏見城(写真)において徳川家康が、また前田利家が大坂城において秀頼の後見として睨みをきかせますが、利家の死によって家康の独壇場となり、以後は各大名(伊達、福島、蜂須賀・・・)を取り込むため、次々と私婚を重ねます。
 他方 ライバルを追い落とすため、前田、浅野、上杉等へは謀反の疑いをかけていきます。
 一方 石田三成は朝鮮での各武将の働きについて、秀吉に対し偏った報告を行ったことから、加藤清正達に襲撃を受け、伏見の徳川屋敷(一説には、伏見城の石田屋敷)に逃げ込み、家康の仲裁で佐和山城で蟄居となりますが、結局 三成は秀吉の遺命を守るため、挙兵するに至ります。
 しかしいつの世もそうですが、結局 勝ち馬に乗らないと結果は哀れということでしょうか。