遊びをせんとや生まれけむ

MNです。

最後のブログになりました。短い間でしたが、お付き合い、ありがとうございました。ところで前回の私のブログから、間に2人(3件)しか挟んでいません。更新するメンバーが固定化、高齢化してきて、今日の地域活動みたいですね。

<今日の支援室>
成績評価が大変でした。各先生方、テンパッてましたね。私も、いつも「評価」には悩みと迷いがつきまといます。学生の指導なんて「這えば立て、立てば歩めの親心」でいいんじゃないかと(ついつい)思ってしまいます。この場合、「評価」はなく励ましのみです。学生は赤ちゃんじゃないよ、という場合、では「評価」は何のためなのか?

本人へのフィードバックなら、評価よりも良い方法があります。指導を続けることです。ラグビーは、反則を取る前に「指導」がはいります。「次やると反則とるよ」「下がって、下がって」など、判定以外のレフェリーの声が聞こえる数少ないスポーツです。「評価」の目的は、そうではないと思っています。では何か・・・答えはきっと、社会に対する選別機能じゃないかと思っています。しかし社会の側は、あまりあてにしてなかったりして、特に昔はそうでしたね。だから適当でいいとは言えませんが、やはりよくわかりません。

そうこうしてブログを書いているうちに、社会起業学科の合宿のスタッフが帰ってきました。その結果、ぜひブログに掲載してくれぇ!

<震災ドラマ新版>
前回のブログから、1.17を挟んでいます。1.17は、毎年かろうじてマスコミの話題になっていますが、いつ忘れられるのか、と心配します。今回面白かったのは、神戸新聞の1.17の震災体験ドキュメンタリーがあって(「神戸新聞の7日間」)、これまでにない切り口で面白く見ていました。視聴率も高かったようです。後で、神戸新聞の人に「あれって本当?」と聞いたら、脚色はたくさんあるが、おおむね事実であるとのことでした。ただその人、脚色の部分は、あまりお気に入りではなかったようです。何よりも担当者と役者のルックスが違いすぎ!この人に「櫻井翔」はないだろう、と(私が)思ってました。

ドラマの中身は、震災で壊滅状態にあった神戸新聞が、新聞をできる限り自社で発行しようとした苦労話で、象徴的なシーンは、被災者にカメラを向けることの是非が問われるところです。またドラマでは触れられませんでしたが、被災現場を写す取材のヘリコプターの音で、家屋に埋まった被災者の声が聞こえず、そこに火が迫ってくる、せめて最後の言葉ぐらいは聞きたいのにそれもままならない、そんなことがありました。そんなマスコミとは一体何か、という疑問をもっていました。被災者にカメラを向けることとは、ちょっと質が違うにしても、自分が取材記者の立場なら・・・と凍りついてしまいます。

我が家では、大きな揺れのあと、すぐに実家の親に電話して無事を確認したんですが、その2〜3分後には電話が通じなくなってしまいました。停電のなか、状況を知るのに、ラジオさえも電源がないと使えず、昔の電池のラジオを探して皆で(といっても当時まともに聞けるのは夫婦のみ)聞き入ってました。MBSの川村アナウンサーだったか・・・、タクシーで出勤しながら被災の実況を伝えていたことを思い出します。自分の家も被災している中、タクシーから放送するなんてすごい、と思っていました。これも「プロ意識」か。

そんな状況の中何を思ったか、現妻は勤務地である大阪に出勤しようとするのです。もちろん状況から察するに、電車が普通に通っているわけはなく、前を通る幹線道路176号はすでに迂回のクルマですごい渋滞、ほとんど動いていません。通常の判断力が曇っているとしか思えませんでした。無理だと止める私に、可能な限り近づこう、とのこと。それは彼女のなりのプロ意識でした。保育士ですから、居るべきときに、その場所(保育所)に居ること自体もすでに仕事なわけです。

「神戸新聞の7日間」でも、通常の状態ではない中でのプロ意識がテーマになっていました。「被災者にカメラを向ける」ことは、それを躊躇するか否かはあっても、その状況の中で必要な行為だったんだ、ということをにおわせていました。

<タイトルは梁塵秘抄の一節>
タイトルの「遊びをせんとや生まれけむ」は、「梁塵秘抄」の一節です。古典で、こういう面白い詩というか作品があるのを知ってほしかったのれす。

●原文は、
「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ。」(梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 雑)

●訳は、
「遊ぶために生まれて来たのだろうか。戯れるために生まれて来たのだろうか。遊んでいる子供の声を聴いていると、感動のために私の身体さえも動いてしまう。」

■梁塵秘抄解説HP
http://www.nextftp.com/y_misa/ryoujin/hisyo_06.html

私は仕事以外の余分なことが好きで、仕事が嫌いで・・・、皆ある程度はそうだと思うのですが・・・。だから「仕事ができる人」だからといって、それが理由でその人に魅力を感じることはありません。一方、「余分なことに得意な人」、「どうでもいいことに執着する人」、「遊びができる人」などにはすごく魅力を感じます。日常会話の中で「仕事ができる人」を称賛する話が出ても、「何でそんなに仕事ができる人が良いの?」といつも思っています。仕事で、決断力のある人・判断力が優れた人・すごい誠実な人・コミュニケーション能力がある人・リーダーシップが取れる人・企画力がすごい人・研究が秀でている人等々、まあそれはそれ・・・という程度にしか思えません。

逆に何の役にも立たないことに秀いでた人に憧れます。ラテン語ができるとか、百人一首は一通り覚えているとか、日常の会話に「本歌取り」が満載だけど誰も気づいてくれない人とか、日本の山登りを100は達成した(しようとしている)人とか、マイナーなアマチュアスポーツに徹していてそのパフォーマンスが高い人等々、世の役に立たないことなら何でもいいんです。このブログの更新も、酔狂で成り立っていることが尊といのだと思っています。

要するに、「生産」には魅力を感じないが、「消費や蕩尽」に魅力を感じるわけです。何でそう思うんでしょうねぇ。時期的には、ニューアカデミズム育ちだから? それともバブルの申し子? ヴェブレン好きが高じた? 不良の哲学? 自分でもよくわかりません。

<せっかく最後のブログだから何か写真はないか>
ないのだ。
面白いのがないのだ。
だから先日行ったカニ・温泉旅行の写真を掲載するのだ。
就職祝いに、現妻と夕日が浦温泉に行ってきたのだ。

ここは温泉としては年月が浅くて、「温泉も楽しめるよ」ぐらいだけど、カニはすごくおいしかったのよ。場所は丹後半島西側の根っこ、城崎とかが近く。夏は泳げるような砂浜が西向きなので、夕日が見える「夕日が浦温泉」というわけなのよ。

貧乏人のたまの贅沢だったので奮発しましたが、宿泊費込一人3万円をこえないようにカニ料理のグレードを下げました。それでも私の舌には十分すぎるほど美味でした。カニのグレードを上げるという次の楽しみができたので、下げてよかったぁ、と思いました。カニしゃぶとか生のカニとか、都市部ではなかなか食えませんぜ、ダンナ。

■一日目は、雨嵐の中(立岩)
雨が横から降るような状況の中、無理して「立岩」まで足を伸ばしました。地層が縦に走っていて、どんな地殻変動があったのか、知りたくなりました。

■一日目のカニ料理
上方にカニ味噌。二段目は生ガニ。最下段は食べきれずカニの身体ごとお持ちかえり。どれもおいしかったよぉ!

■二日目は、快晴、穏やかな海(夕日が浦の浜辺)
小さく見えているカップルがいますが、男は私ぐらいの年齢で白髪のおじさんと、女は茶髪のねえちゃん(30歳までか)の組み合わせで、歳の差の想像は20歳以上。一日目このカップルが、館内の温泉に入りにエレベータに入ってきて、出て行った時、エレベータに残された私と現妻は同じ想像をして、顔を見合せて「ブーッ!」と吹き出してしまいました。勝手な想像で楽しむという、こういう温泉旅行の楽しみもあるのだ!

■帰りはソバ(出石ソバ)
カニで贅沢した後は、地味に出石のソバで締めました。出石は、町に風情というか情緒というかがあって、ホントいい感じでした。もっと観光化されてもよさそうな・・・。そして最後は、ついでに三田(神戸北)にあるアウトレットモールで買い物。最後で、せっかくの旅行気分は吹っ飛びました。やれやれ一体、何やってんだか・・・。

え〜もう終わりか。
仕方ないですね、皆様ありがとうございました。

実践教育支援室年長 MN