囚われた思考の怖さ

知的には問題はないのだが、何かにとらわれるというか、柔軟性に欠けた思考をしがちな傾向を持っている人がいる。
そういう人は、あることに関して、自分が強い印象を受けるような経験をし、何らかのよい結果が得られた場合、それに固執してしまって、たとえば「世の中にはいろいろな場合があるのだ」ということを考えることを放棄してしまう人がいる。
それぞれのケースというか、反応、結果を参考にして対応をそれぞれ考えなければいけないのだが、自分自身が、人の感情や思考の感知があまりできないという資質を持っていることが自覚できないために、自分が知識、経験を持っているただ一つのことにこだわってしまって、違った対応が取れないのであろうと思われる。

多くの場合それでもなんとかなるのだが、そうではないケースにあたった場合でも、決してそれを理解できないでパニックになりながらもそのとらわれから離れることができない。

そんなことをすれば自分自身が壊れてしまうような不安に襲われるからであろうと思われる。

そういうサポータ—にであってしまう人もいる。

「子どものどんな要求も親が応じることで子どもはエネルギーを補給して元気になる」という人がいる。

多くの場合それは本当であると私も思う。
一部のケースを除き、親のできないことを要求する子はまずいないからである。

問題はその「一部のケース」である。
「できない要求をする」「要求にこたえればこたえるほどより要求がエスカレートする人のタイプ、ケース」があることを私たちは知る必要があることを知らなければならない。

そしてそういう場合、無制限にけじめなく要求にこたえることは「人間にできることではない」し「要求している本人のためにもならない」ということを断言する。

要求の応え方に問題がる場合もあるから、簡単にそれを判断することには危険があることも言っておかなければならないが。

その偏り、こだわりのある人が、肩書や地位やお金を持っていると悲惨なことになる場合がある。

親の代わりに無理な要求をされる側になってしまうことになったりすると周囲は手がつけられない。

そういう人は自分に要求されると「他のだれもが理解できないが自分だけは理解ができる」という喜びにとらわれ、他のことを見ようとしない。
共依存という状態になってしまう。
自分以外の人を「信用できない、してはいけない」と言ったりもする。
それが相手にとってどんなに有害か理解できない。

私達のような仕事をしている人は、当事者に向かって「自分だけを信じなさい。他を信用するな」とは決して言わない。
言う人がいたら眉に唾をつけたほうがいい。

実際のところ周囲は、当事者がそういう関係になってしまったら、限度を超え、破綻するのを待つしかないのだが、破綻した時、後のことを考えると…。

ため息をつくだけでは済まない。
何かあってからでは遅いのだから。

しかし・・・何ができると言うのか何も持たない私に…。
眠れぬ夜が続く。