ありもと@孟子です。。 みなさんこんばんは。。
ここ数日、夏のような陽気が続きましたが、今日は朝から冷
たい雨が降っています。
4月に入っても、冬将軍と春の精のせめぎあいは続いてい
ます。
朝から休みの日にしかできない部分の清掃のために、わん
ぱく公園に向かう途中、北野上の某所を訪ねます。
和歌山県RDB絶滅危惧ⅠA類・キイウマノミツバの咲く谷が
あります。
数年前、藤田昂己君が発見し教えてくれたものですが、現在
和歌山県環境生活総務課自然環境室が行っている和歌山
県RDBの改定にあたって、植物の専門委員の内藤麻子さん
から、標本採取の依頼を受けていたのと、あの幻想的な紫色
の花に久々に出会いたくて、立ち寄ったのでした。
キイウマノミツバの花は、満開でした。
100株前後群生する谷では、紫のじゅうたんのように花が並
んでいます。
地味な中にも清楚な美しさのある和歌山県固有種の花園が
北野上にあることは、同じ北野上地区の孟子で里山保全活
動を展開する我々にとっては、大変喜ばしいことであり、今後
も地元の「宝」として伝承してゆきたいものです。
久々ぶりの「伝説の花」との出会いに心を躍らせ、わんぱく公
園でいつもの仲間たちと語らいながら清掃を行ったあと、あり
もとは一人、雨降る孟子不動谷に向かいます。
今日は「客人」があります。
兵庫県六甲山植物園に勤める中岡久美さんです。
中岡さんは文系の大学を卒業し、全く植物の知識が無いにも
かかわらず、植物園で広報の担当をされていて、生物多様性
のイベントを企画することになっているということで、今日はあ
りもとの話を聞きたいということで、わざわざ兵庫県から「たま
電車」に乗って、雨の孟子に来てくれたのでした。
キビタキとセンダイムシクイが歌っています。
なのにオオルリの声が聞こえません。
入江さんはもう何度も聞いたとおっしゃっているのに、ありもと
はまだ1度も聞けません。
今日は雨天なので仕方ありませんが、オオルリと「悪いジンクス」
がつかないことだけを願いたいものです。
道すがら、満開のウマノアシガタやキツネノボタンを観賞したり、
谷一面に響くシュレーゲルアオガエルの大合唱に耳を傾けなが
ら、二人で谷奥を目指します。
中岡さんは、自分が植物を知らないということにかなり「負い目」
を感じておられて、そんな自分が、イベントの企画ができるだろう
か?と悩んでおられるようです。
「知らないことが逆に良いということもあるんやと思うよ」
と語りかけます。
ありもとの知っている事例にこういうのがあります。
植物専門の先生が興した生物部に、鳥類班が組織されました。
その先生は、鳥は全く知らないので、生徒に鳥類図鑑を渡して、
勝手に調べるように言いました。
それで生徒の一人は思ったそうです。
「先生は、鳥を知らん。自分が一生懸命見て、鳥を覚えたら、鳥
では先生に勝てる!」
これがその1人の生徒だけでなく、鳥類班全員のモチベーション
になって、生物部は急成長を遂げたそうです。
子どものモチベーションなんて、こんなものなのです。
「先生に勝てる!」それだけで、すごく頑張れるのです。
それと、よく孟子に来る子や引率する先生が、こう言います。
「孟子は自然が豊かで良いですね」
「私の学校は街中にあるので、自然観察ができません」
ありもとは、いつも疑問に思います。
「この人たちは、何を基準に、孟子が自然豊かというんやろう?」
「なぜ街中で、自然観察ができないんやろう?」
和歌山なら、どんな市街地でも、家から1歩出たら、5種類やそこ
らの鳥はいます。
モンシロチョウやツマグロヒョウモンやったら、本当にどこでも飛
んでいます。
田んぼがあるなら、アマガエルとヌマガエルは、まずいます。
自然観察できない場所なんて、無いんです。
確かに孟子と比べたら、種組成は貧弱かもしれない。
でも絶対「種組成」はあるのです。
それを学校のまわりで自分たちで見て、そして孟子に来る。
そして学校のまわりでは見れないウラナミアカシジミや、ニホンア
カガエル、ハチクマなどに出会って「孟子は自然豊かや!」と感じ
るものでしょう。
また逆に、熊野の森に近い学校が孟子に来たら「僕らの学校の
まわりのほうが、自然豊かや!」と感じるわけです。
つまり、比較の対象になる「ものさし」を持たないと「豊か」である
ことが、見えないということです。
そして自分の「ものさし」があれば、その「ものさし」と違う孟子に
「なんで孟子はこうなん?」という「疑問」を持つのです。
その「疑問」があって初めて「環境学習」が成立します。
「疑問」というのは「心の渇き」です。
喉の渇いていない人の前に缶ジュースをおいてもだれも手を出さ
ないように、「疑問(渇き)」を感じていない子どもにどれだけの環
境用語を並べても、「環境学習」は成立しないのです。
今は、「教えなくても良いことを教え過ぎ、教えなければならないこ
とを教えなさすぎ」な世の中のように思います。
自然の中に子どもを連れだすと、先生が子どもが聞きもしないの
に、道にはえている草花の名前をまくしたてるように説明します。
感受性豊かな子どもなら、ほうっといても「気づき」「よろこび」「疑問」
をもつのに、それの暇を与えずに「答え」を並べたてます。
子どもは「疑問」を持たなくなります。
こういうものは「子どもが”なんで?”と言ったときにのみ、教えるべ
きものなのだと、ありもとは思っています。
また一方、わんぱく公園で親子連れを見ていると、子どもがごみを
散らかしても、「5歳以上の子は遊ばないで」と書かれた遊具でどう
みても6歳以上の子が遊んでも、親は注意もしません。
自分の食い散らかした食べ後を片付けるネコやイヌを見たことない
ように、「自分のしたゴミは綺麗に持ち帰る」「公共の場では、ルール
を守る」ということは、人間が、人間として、人間社会で生きてゆくた
めに身に付けるべき「ルール」であり、これは動物としての人間の「
本能」ではなく、「躾」という親や周りの年長者により施される「教育」
により、後天的に形成されるものだと思うのです。
つまりこれは子どもに「教えなければならない」ことなのです。
「教えなくても良いことを教え過ぎ、教えなければならないことを教え
ない」で育ったことで、平気でゴミをまきちらし、孟子に来ても疑問も
もてない子が増えています。
これは今の親たちが「人間は人間として生まれる」と誤解している
ことに原因があるのではないか?と思います。
「人間は動物として生まれ、”躾”により人間になる」のです。
「自然観察」というのは、人間の「動物」の部分で感じることが大切
です。
オオタカやモズがシジュウカラの巣を見つけるように、巣に外敵が
近づくとシジュウカラの「声が変わる」ことを「動物の本能」で察知
する訓練を、幼いうちに行わないと、モノにはならないと思うのです。
花を見る。色を感じる、花弁の形の違いを感じる・・・・
そういう「動物の本能」の部分の訓練を行う前に「植物分類学」を
幼い子どもに与えることは、大きな間違いなのです。
まず「本質」を感じさせ、そのあと、「概念」を教える。
この「順番」を、今の「環境教育」は、取り違えています。
それをするのに中岡さんが「知識がない」ことは、大きな「アドバ
ンテージ」になるのです。
自分も植物を知らない。だから知りたい。
自分が「知りたい」ことを知ることのできるイベントを企画すれば
良いのです。
植物図鑑のような、「学者」ではなく、「知りたい」と思う「お姉さん」
の交わることで、子どもは「疑問の持ち方」を学ぶことができると
思います。
「知識が無いことを”負い目”から”武器”に変える」
雨の中、わざわざ来てくれた中岡さんにありもとが贈った言葉は
それでした。
大池遊園で見送る彼女の顔が、出会ったときよりも輝いて見えま
した。
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<鳥類>
アオサギ、キジバト、カワセミ、コゲラ、アオゲラ、ツバメ、キセキ
レイ、セグロセキレイ、ビンズイ、ヒヨドリ、キビタキ、ジョウビタキ
シロハラ、ツグミ、ウグイス、センダイムシクイ、エナガ、ヤマガラ
シジュウカラ、メジロ、ホオジロ、アオジ、カシラダカ、カワラヒワ
シメ、イカル、スズメ、ハシボソガラス、ハシブトガラス
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