万葉の歌人・天武系の皇子たち

日 時 平成22年5月29日(土)
場 所 大社公民館
講 師 山内英正氏(甲陽学院教諭)
 先に天武天皇の長男(高市皇子)から八男(穂積皇子)までの
和歌をご紹介いただきましたが、今回は九男・十男と孫皇子達
の歌をご教示くださいました。
 まず弓削皇子(九男)ですが、政権から遠く離れていることも
あって野心はなく素直な歌が多く、特に天武天皇ゆかりの吉野
に関する「古に 恋ふる鳥かも ゆづるはの 御井の上より 鳴き渡り行く」「瀧の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思はなくに」等が印象的で、万葉集には九首残されています。
 新田部皇子(十男)は、若くして天然疫で病死したためか万葉集に御歌はありません。
 長屋王(天武の長男・高市皇子の長子)は左大臣にまで出世し、次期天皇との呼び声も高かったのですが、藤原氏の陰謀にあって吉備内親王(妻・草壁皇子の娘)とともに自尽して、万葉集には五首を残すのみでした。
 またその子の安倍王(長屋王の第五子)は二首を、その弟の山背王と膳部王(長屋王と吉備内親王の子)はともに一首を残しています。
 草壁皇子(天武の次男・皇太子)の系列では、軽皇子(後の文武天皇)が一首を、首皇子(後の聖武天皇)が十一首を残しました。
 ただ、天武天皇や持統天皇の想いもむなしく、天武系の孫皇子達は藤原氏の毒牙にかかって次々と排除され、後年 再び天智系の天皇が続くこととなり、これは正に歴史のひにくとしか言い様がない経緯となりました。