多様性のある世の中について考える

◇◆最近、本当にいたる所で、
「アスペルガー…」「ADHD…」という言葉を
目に耳にすることが多くなりましたね。
ひとくくりにまとめて、「発達障害」という
言葉(カテゴリー)に入れる傾向もあるのかな
と感じなくもないです。

僕個人は、違和感がないわけではないですが、
特別に「発達障害」というカテゴライズの
反対派ではありません。
じっさいに、診断を受けて「今までの苦しみが
楽になった」とおっしゃる方が多くいるのだから、
それならよいのでは…と考えるのです。

その人がどう感じるか、という問題でも
あるかと思えます。僕が…でも、
権威のある学者さんが…でもなく、
最終的には、けっきょく、個人のとらえかたに
あるのかなあと思えるのですね。

タイトルの「どこまでが多様性?」ですが
難しい問題だということがわかります。
一概に、人に迷惑をかけてしまうから「発達障害」
自分でやっていける—人には迷惑がられないから「個性」
と決めつけられる事柄ではないかと思います。

僕自身、人に迷惑をかけてしまう時もあり、
でも感謝され、自分でもサポートが出来たなと
思えるときもあります。みなさんもそうですよね。
「個性」とはその人らしさであり、だから「多様」な
社会・世の中なのだと思うのですね。

様々な人たちが、自分らしく生活できる
自分に合った勉強、仕事の仕方・種類があると、
それだけの懐の深さが社会にあると、
本当によいなあと考えます。

宝くじで三億円当たれば、いいってものじゃない
勉強なり仕事は自己実現でもあるわけですよね。
そのようなことをみんなが考えられる、自分で考え
自分の事柄にすることが出来る社会

それは理想郷なのでしょうか。
僕はそうは捉えていません。
みんなが考えられる—人は考えられる
世の中は動いている—昔も今もです◇◆