懐かしい松下電器時代!

私、中山は若かりし20代のころ、松下電器産業、本社にお勤めしておりました。
現在はパナソニックになりましたが、そのころは松下幸之助氏は会長でした。

正治氏が社長をしておられ、社長秘書の方が私と同じ高校の先輩でした。
とても懐かしい思い出がいっぱいあります。

年を重ねるとともに、当時のことが鮮明に思い出されるようになりました。
PHP出版ができたころで、社員にはPHPの小冊子が配られており、今から思うと
もっとしっかり読んでおけばと悔やまれます。

「松下電器の遵法すべき精神」は毎朝の朝礼の時唱和しておりまして、今でも充分に頭に叩き込まれています。

この頃、本屋で幸之助氏の本が目にとまるようになり、、手に取ってしまいます。
時間をとってしっかりと読んでみたい衝動に駆られますが、遅きに落ちたところでしょうか。

さて、下記の記事が目に入りましたので、すでにご存じだとは思いますが、丹波ふるさとネットに引用させていただきます。

友清 哲ビジネス誌、文芸誌を中心に活動するフリーライター。一応、経済学部卒。著書に『片道で沖縄まで』(インフォバーン)、『作家になる技術』(扶桑社文庫)ほか。

…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

創意工夫の積み重ねで町工場を拡大

松下幸之助(1894〜1989)。大阪府門真市にある『松下幸之助歴史館』には、幸之助の生涯や事業発展の歴史が展示され、今日も多くの見学者を集めている

当連載のトリを務めていただくのは、やはりこの人、「経営の神様」こと松下幸之助がふさわしいだろう。

生まれは1894年、和歌山県。父の破産を受け、9歳のころから丁稚奉公に出るなど、苦労の多い幼少期を過ごした幸之助。16歳で大坂電灯(現在の関西電力)に入社するが、これは路面電車を初めて目にした際、大きな乗り物を駆動させるエネルギーに将来性を感じ、電気にかかわる仕事を志すようになったためだという。

大坂電灯在職中、幸之助は独自に着脱の簡易な改良ソケットを作っている。当時の家屋は直接内部に電線を引いており、電球の着脱が非常に危険な作業であったがゆえの工夫だった。しかし、時の上司に「使いものにならない」と一蹴され、実用化は叶わず。その際の悔しさが、入社から7年後、起業を決意させる。

22歳で独立した幸之助は、あらためてソケットの製造、販売に乗り出すが、なかなか世間の理解を得られず、風呂代にも困る赤貧の日々が続く。

しかし、ソケット開発で培った煉物(ねりもの=合成樹脂などを練り固めた素材)製造のノウハウが、扇風機の碍盤(がいばん)製作という思わぬ受注を呼び込んだ。碍盤とは台座内で配線が互いに干渉しないよう固定する部品のこと。おかげで売り上げは少しずつ上昇した。期せずして扇風機に救われたことが、家電への思い入れを植えつけた側面は大きいだろう。24歳の時、幸之助は正式に松下電気器具製作所を設立する。

碍盤製作のほか、古電球の口金を利用した電気器具「アタッチメントプラグ」がヒットし、会社は順調に拡大。さらに、当時は革新的だった「2灯用差込みプラグ」もまた大ヒット。25歳を迎える直前には、会社は早くも従業員20人以上の所帯に成長していた。

人々が目を見張ったのは、創意工夫を続ける幸之助の姿勢だ。既製品に満足せず、さらなる利便性を追求して新商品を開発したほか、作業場に棚を吊って棚上・棚下の二層構造でラインを敷き、生産効率を上げた。

26歳の時、第1次世界大戦の終結を受けて日本は深刻な反動不況に陥るが、この時期すら順調に売り上げを伸ばしていたのは、状況や環境に合わせて工夫できるアイデア力のたまものに違いない。

その後、一代で今日のパナソニックにつながる松下電器を築き上げた偉業については、今さら語るまでもないだろう。80歳を超えてからも、日本の未来を案じて「松下政経塾」を設立するなど、決して歩みを止めなかったバイタリティは、次代を担うR25世代こそぜひとも見習わなければならない。