『竹内街道と松尾芭蕉』

(%緑点%) 後期講座(9月〜1月:全14回講義)の第2回の講義報告です。
・日時:9月21日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 竹内街道の変遷−「竹内街道と松尾芭蕉」
・講師:上野 勝己先生(科長遊史会・元太子町立竹内街道歴史資料館館長)
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竹内街道(たけのうちかいどう)
・竹内街道は、日本書紀 推古天皇二十一年(613年)の条 「難波(なにわ)より京(みやこ))に至る大道を置く」と記されていた日本最古の「官道」。
・竹内街道のルートは、堺市大小路−堺市金岡−松原市−羽曳野市−太子町−竹内峠−奈良県當麻町長尾神社までの約26km。
・竹内街道と呼ばれたのは、江戸時代からであり、この道は、古代の丹比道(たじひみち)であるとされている。竹内街道は、竹内峠越で、堺と大和を結ぶ要路でした。「遣隋使・遣唐使が通過した外交ルート」、「聖徳太子信仰の道」、「中世には自治都市・堺と大和を結ぶ経済の道」、「江戸時代には西国巡礼や伊勢詣などの宗教の道」、現在は国道166号線となり、奈良と大阪を結ぶ重要な道である。

「松尾芭蕉」略歴
・正保元年(1644年)芭蕉生まれる。(伊賀上野)
・寛文12年(1672年)29歳 江戸へ
・延宝8年(1680年)37歳 深川の草庵
・貞享元年(1684年)41歳 野ざらし紀行(江戸〜大和)
・貞享5年(1688年)45歳 笈の小文の旅(伊賀〜明石)
・元禄2年(1689年) 46歳 奥の細道の旅
・元禄7年(1694年) 51歳 死去(大阪・南御堂前)
(参考)
・江戸幕府・・・4代 徳川家綱(1651〜1680)、5代 徳川綱吉(1680〜1709)
・元禄文化(17世紀半ば〜18世紀初め)
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(%エンピツ%)講義の内容(要約)
1.松尾芭蕉と竹内街道
(1)『野ざらし紀行』 貞享元年(1684年)秋の8月から翌年4月 江戸〜大和
・「野ざらし紀行」は、芭蕉にとっても初めての文学の旅で、旅には大和(竹の内)に帰郷する門人の千里(ちり)が同行した。
”大和国に行脚して、葛下の郡竹の内と云所にいたる此処は、れいのちりが旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む” → 芭蕉が門人・千里の旧里竹内に数日滞在した。
 「綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥」 (芭蕉) 
”二上山当麻寺(たいまでら)に詣て、庭上の松を見るに、およそ千歳も経たるならむ。大いさ牛をかくすともいふべけむ。かれ非常といへえども、仏縁にひかれて斧斤(ふきん)の罪をまぬかれたぞ、幸いにして尊し。 → 芭蕉は、有名な当麻寺の曼荼羅には全く関心を示さず、境内の松の大木に目を留め、この松が「斧斤」をまぬがれて巨木になったことを仏縁によるものと観じている。
「僧朝顔 幾死にかへる 法の松」 (芭蕉) 

(2)『笈の小文』貞享5年(1688)伊賀〜明石
・門人惣七宛の芭蕉書簡 → 芭蕉が竹の内で伊麻を訪問

(3)芭蕉が面談した竹内の伊麻 → 鰻でお父さん孝行(孝女・伊麻の物語)
①『西国名所図解』(伊麻記事と挿絵)
②地元旧家に残る『今市物語絵巻』
③孝女・伊麻伝承
④雲竹の「伊麻肖像画讃」
⑤南河内にも及んでいた伊麻孝養話−「河内屋可正旧記」元禄年間(1688〜1704)

2.『野ざらし紀行』と『笈の小文』〜矛盾の要因〜
(1)近隣村々の軋轢
(2)二上山南麓の二つの峠越えルート
・本道・竹内街道と、間道・岩屋道(当麻道)
(3)当麻寺の「貞享重新曼荼羅』
(4)村々の軋轢を今に伝える石造物

【竹内村の訴状(寛政6年(1794年)】 
・竹内村の訴状が残っていたことで、孝女・伊麻の話、芭蕉の矛盾が解明。
《訴状の内容》…間道・岩屋道の細道を切り拡げて大道にした。このため、竹内村を往来する旅人がなくなり、その日暮らしの百姓が難儀をしている。従って、岩屋道の拡幅を中止してほしい。→ 結果は、岩屋道の拡幅は中止になっている。
《竹内街道と岩屋道の軋轢は100年前にもあった》…(岩屋道拡幅は今回が初めてなく、百年前(1690年頃)ほどにも当麻寺・山田村が行ったが、奉行に訴えて中止させている。
 (注)岩屋道は、有名な当麻寺に、直接、行ける道である。

・芭蕉は、わび・さびの世界の人だけでなく、普通の感覚を持った人であった。そこに、芭蕉の魅力を感じる。(上野先生談)…芭蕉は、門人・千里(ちり)の旧里(竹の内)に滞在し、孝女・伊麻を訪問している。→ 芭蕉が当麻寺に行っても、有名な曼荼羅などには関心を示さず、境内の大木を句に詠んでいる。また、孝女・伊麻を訪問しており、当麻寺の「中将姫伝説」に対比して行動している考えられる。
*尚、 「竹内村の訴状」は、近年、単なる紙くずとして焼却処分されるところ、たまたま、長櫃に入ったままの状態で残されていて、後日、貴重な資料として発見されたものです。(歴史上の資料は、意図的に残されたモノ、、たまたま運よく残っていたモノ、そして、時の権力者によって意図を持って廃棄されたモノ、などがあります。)

3.伊麻孝養伝承の原形(中将姫)
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上野勝己先生は、時おり、タオルで汗を拭きつつ、「芭蕉の矛盾」、「孝女・伊麻の背景」を、”野ざらし紀行”・”笈の小文・門人への書簡”、”雲竹の伊麻肖像、”、”竹内村の訴状など”から解明され、本当に熱の入った講義でした。