『被葬者を探る』

(%青点%) 後期講座(9月〜1月:全14回講義)の第4回の講義報告です。
・日時:10月5日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「被葬者を探る」
・講師: 笠井 敏光先生(文化プロデューサー・大東市総合文化センター館長)
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*「天皇陵」について*
・天皇陵とは、天皇の墓として宮内庁が指定している墓をいう。
・天皇・皇后のものを陵(みささぎ・りょう) 。それ以外の皇太子や親王などのものを墓(はか・ぼ)
治定(じじょう)(広辞苑より)…「おさまり定まること。決定すること。」→ (例)「大仙陵古墳は、宮内庁より仁徳天皇の陵墓と治定されており、百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)との陵号が与えられている。」
・幕末から明治にかけて、王政復古を背景に、天皇の権威を高めるために陵墓が修復された。→ 宮内庁の管理(皇室財産)。
・天皇陵は、考古学者の調査は厳しく制限されており、一般市民の立ち入りは禁止されている。
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.講義の冒頭に、笠井先生より質問・・・ 「被葬者がわかっている古墳は、日本にいくつありますか?」
 ・ ・・・(手を上げた人数) 6人
 ・ ・・・( 〃 ) 約12人
 ・ ・・・( 〃 ) 約20人 (*答えは、最後に記載しています。)

2.古墳における時間と空間
 ①時間の調査
 ・考古学調査…古墳の年代、埋葬品の年代、石棺の年代、被葬者の性別・年齢など
 ・文献…古事記、日本書紀、中国の文献 
 ②空間の調査
 ・古墳群(古市古墳群、百舌鳥古墳群など)、単独

3.被葬者を探す
(1)雄略天皇−5世紀後半、陵墓:丹比高鷲原陵(河内・丹比) 
 ・(伝雄略)高鷲丸山古墳…(時期)5C後半−○、(地域)丹比郡−○
 ・(陵墓)河内大塚山古墳…(時期)6C −×、(地域)丹比郡−△
 ・(伝仲哀)岡ミサンザイ… (時期)5C後半−○、(地域)−×
 *雄略天皇は、高鷲丸山古墳の被葬者と推定される。

(2)継体天皇−6世紀前半、陵墓:三嶋藍野陵(摂津・嶋上)
 ・(陵墓)太田茶臼山古墳…(時期)5C中−×、(地域)摂津・嶋下−×
 ・今城塚古墳…(時期)6C前−○、(地域)摂津・嶋上−○
 *継体天皇は、今城塚古墳の被葬者と推定される。

(3)欽明天皇−6世紀後半、陵墓:檜隈坂合陵(大和・高市)
 ・(陵墓)平田梅山古墳…空墓
 ・見瀬丸山古墳…石室に2つの石棺(奥棺(女性)、前棺(男性))
 *欽明天皇は、見瀬丸山古墳の被葬者と推定される。
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”墓誌を入れる習慣が無かった”
・墓誌は、故人を顕彰するために、姓名・生前の業績・記念文を記して、石板を棺のそばに埋めたもの。
・古墳時代(3世紀中頃から6世紀後半)…我が国には、 ”墓誌”を入れる習慣が無く、被葬者を探す手がかりに証拠がないため、天皇あるいは皇族の墓であるかが不明なものが多い
・墓誌を入れるようになったのは、7Cの後半頃から。(飛鳥時代、渡来人に限られて墓誌が入れられる)

”比定(ひてい)”
・(広辞苑より)…比定とは、「同質のものが無い場合、他の類似のものと比べて、それが(およそ)どういうものであるかとさだめること。」
・(例)「継体天皇陵は、宮内庁は大阪府茨木市の太田茶臼山古墳に比定しているが、築造時期は5世紀の中頃とみられており、近年、大阪府高槻市の今城塚古墳は6世紀前半の築造などから、真の継体天皇陵とするのが定説となっている。宮内庁による治定の変更は行われていないため、今城塚古墳は一般市民も立ち入ることができる。」

”名称の変更”
*長い間、伝承されてきた名称が、近年、変更されてきている。これは、考古学による調査、文献などの分析などから、伝承されてきた名称が、確定できないどころか、他の古墳の方が真の該当古墳ではないかという事態が出てきて…決められないためである。
仁徳天皇陵 → 大仙陵古墳(だいせんりょうこふん。大仙古墳、大山古墳ともいう)【大阪府堺市・百舌鳥古墳群】
応神天皇陵 → 誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん。誉田山古墳ともいう)【大阪府羽曳野市・古市古墳群】
*笠井先生の説…不明な点があっても、長い間、伝承されてきた名称を使って、 『伝仁徳天皇陵』 とした方が良いと思う。
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(%紫点%) 冒頭の質問の答えは…①0です。(文献や考古学から推定はできても、古墳に墓誌のような明確に記載したものが残っていないため、確たる証拠に欠け、決められないのが実態です。) → このため、諸説が出てきて、逆に、このことが古代史ブームの一要因にもなっていると思われます。