『聖徳太子と河内飛鳥』

(%青点%) 後期講座(9月〜1月:全14回講義)の第10回講義報告です。
・日時:12月7日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:聖徳太子と河内飛鳥
・講師:笠井 敏光先生(文化プロデュ−サー・大東市総合文化センター館長)
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*聖徳太子[厩戸皇子(うまやどのみこ)]の略歴*
574年(敏達天皇3年)…誕生。[用明天皇の第2子。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)]〈聖徳太子は蘇我氏と強い血縁関係〉
593年(推古天皇元年)…聖徳太子、摂政となる。[推古天皇(聖徳太子の叔母で、日本初の女帝)のもと、摂政として天皇を中心とした中央集権国家体制を進める。また、仏教を厚く信仰し興隆につとめる。]
・603年…冠位十二階を制定
・604年…十七条憲法を制定
・607年…遣隋使・小野妹子の派遣。[「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがなき)きや」(隋書倭国伝)]
・四天王寺(593年)、法隆寺(607年)などを建立。
622年2月22日(推古天皇30年)…49歳で没する。磯長(しなが)陵に葬られる。(墓は、大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内に現存する)

*飛鳥時代(概要)*
・飛鳥時代は、古墳時代の終末期と重なるが、592年(崇峻天皇5年)〜710年(和銅3年)の119年間にかけて、飛鳥に宮・都が置かれていた時代。[狭義には、推古天皇元年(593年)に聖徳太子が摂政になってから、694年(持統天皇8年)の藤原京への移転までの約102年間を飛鳥時代と称している。]
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(%エンピツ%) 講義の内容
1.アスカ
「飛鳥」、「明日香」、「安宿」、「阿須賀」
飛鳥時代: 593年− (前半) → 645年(大化の改新) − (後半) → 710年
・大化の改新:蘇我氏本家の滅亡
・「近つ飛鳥」と「遠つ飛鳥」(難波宮からの距離と時間)

2.河内飛鳥
・大和国の飛鳥と区別するため、「河内」飛鳥と呼ばれる、また、「近つ飛鳥」とも呼ばれる。
・大和川、飛鳥川、石川の三つの川に囲まれた、竹内街道沿道周辺一帯(安宿郡駒ヶ谷)を中心とする地域を、「河内飛鳥」と呼ぶ。
・河内飛鳥…A地区(安宿郡)、B地区(磯長谷)、C(羽曳ヶ丘)、D(古市古墳群)

3.キーワード「合葬」・「改葬」
・敏達天皇陵(在位572-585年)(河内):591年−敏達天皇を皇后陵(石姫陵)に合葬
・用明天皇陵(在位586-587年)(河内):593年−磯長に改葬
・推古天皇陵(在位593−628年)(河内):竹田皇子と合葬→磯長に改葬

*何故、合葬・改葬したか?
・蘇我氏の出自(出身地)が河内にあった。

4.渡来系氏族
昆支(こんき):461年百済より倭国に来る。翌年に子どもがうまれたので、妻子を百済に帰国させた。この子が武寧王である。…【羽曳野市飛鳥にある飛鳥戸(あすかべ)神社の祭神は昆支である。昆支の子孫は飛鳥戸造氏となり河内飛鳥に居住した。彼らは後に改正して百済宿禰となり、藤原氏につながり、清和天皇にいたる系譜もつ。】
西文氏(かわちのふみうじ)(河内)【応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で、河内を本拠地として、文筆・出納・蔵・運搬(馬)などで活躍した。】
東漢氏(やまとのあやうじ)(大和)【飛鳥に居住して、大和王権のもとで文書記録、外交、財政などを担当し、また、製鉄、機織、土器(須恵器)の生産技術などをもたらした。】

*飛鳥時代は渡来人が活躍した時代で、朝鮮半島から土器製作、農工技術、土木技術、養蚕、機織り、漢字、仏教、医学など新しい文化や技術をもって、多くの人たちが渡来してきた。

5.聖徳太子の謎…「単独葬説」
・「日本書紀に合葬の記録無し」、「葬り方について、平安時代には太子と妃(2体)、鎌倉時代には母を加えた3体の合葬と記されている。(2体・3体と異なっている)」… 「三骨一廟は?」

《笠井先生の説》
聖徳太子御廟の「三骨一廟」は、後世の創作と考えられる。” →「平安時代末期、流行していた阿弥陀信仰(弥陀三尊)になぞらえて、叡福寺や法隆寺の僧侶が企図したのではないか」

6.DVD(関西歴史舞台)を観る
・飛鳥千塚古墳群(羽曳野市駒ヶ谷・飛鳥)…渡来系氏族の墓域。ミニチュア炊飯器など出土。
・聖徳太子(大阪府南河内郡太子町・叡福寺)…聖徳太子の墓所
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