遺跡等からみた地元

日 時 平成23年2月19日(土)
場 所 宝塚東公民館
講 師 直宮憲一氏(日本考古学協会)
 地元(宝塚)は、日本書紀において舒明天皇(第34代)が
有馬へ行幸される際に宿泊されたとの記録があるそうです
が、歴史的にはかなり古いことになります。
 当時は、旧米谷村や西谷村からの出土品により、一定
レベルの豪族が居を構えていたと想定されています。
 遠くインドから中国や朝鮮を経て仏教が伝来しますと、寺院の建設が進み、その氏寺が周辺(尼崎、伊丹、芦屋、川西・・・)にも建てられたようです。
 宝塚の紫雲山中山寺や清荒神清澄寺も前身は京都・仁和寺の末寺であった由です。
 その他市内の各遺跡からも昔を偲ぶことが出来ます。たとえば・・・
①旧清遺跡・・・売布きよしカ丘にあり、平安時代の寺院址で、伽藍が本堂・常行堂・法華堂等から成っていて、天台系であったと推定されています。
②常坂の古銭・・西谷中学校運動場拡張工事時に古銭19万5千枚の入った7つの壷が出土していて、埋納されたのは室町時代から戦国時代にかけてで、戦火を逃れるためではなかったかと思われています。
③安倉南遺跡・・中世の集落遺跡で、遺構(掘立柱建物・柱穴・柵・井戸等々)や遺物(瓦器・青磁・白磁・石鍋等々)が出土しているとのことでした。
 もっとも、宝塚の語源となった「宝の塚」はいったいどこにあるのかは、依然不明であるようです。