2008年度から3年間,経済産業省から受託していた「中間支援機能強化事業」が終了します.
予定では,3月14日に経産省で最終報告会が開催され,3月25日に2011〜2012年度の企業連携系のコンペとなっていましたが,東北地方太平洋沖地震の関係で,すべてキャンセルに.

最終報告会で,1つの区切りと思っていて,そこまでは無理して,強引にでも,と進めてきましたが・・・

このブログも,報告会が終わった後に,と考えていたのですが...

特定非営利活動法人宝塚NPOセンター専務理事 森綾子さんが,2011年2月22日午後7時18分,享年63歳にて永眠され.

振り返れば,中間支援機能強化事業1年目の2009年2月28日に,宝塚ホテルで開催したギャザリングイベントが,兵庫・宝塚の中間支援NPOとして,全国の関係者へ伝えたいことを伝える最後の機会となったのかもしれません.

この約3年間の中間支援機能強化事業をはじめ,各種研修や講演会を通じて,そして,日々の活動を通じて,1人でも多くの中間支援人が,何かを得て,次につなげてくれることを期待しております.

さて,少し昔話を.

奇しくも東北地方太平洋沖地震の後で.

阪神・淡路大震災の1月17日.あの日は,風邪をひいてて,寝たり起きたりしてて,地震の瞬間は起きてました.震源地がみえる神戸市垂水区で大学生.
地震の被害が大きかったのは須磨から東で,震源地に近い垂水・舞子は被害少なく.連れの車で動いてて,北部や尼崎に行くと普通にコンビニやってて唖然とした.

数日後,国道2号線を東へ夜中に抜けて,実家へ.まだ煙りがたってて,道路沿いの家は,1Fが潰れて2Fが1Fになってて.

その数年後,震災復興基金を軸に兵庫でNPOの大きな波が起こり.僕は,親子ほど離れたお姉さまがたの中で,県立大の大学院生という,これまた特殊な環境でNPOに関わっていくこととなります.

その流れの中で特定非営利活動法人宝塚NPOセンターの理事兼フルタイムスタッフとなり.
当時は,中間支援系では最年少だったかと.だれもNPOを知らない時代.

もちろん震災は大きな大きなきっかけ.
神戸にいたし.ただ,なんというか,奥にしまっておくもの,かな.

震災復興の波のなかで,海外調査に同行する機会に恵まれ,NPOのワクワクする可能性を感じ,イメージするようになりました.
それはシンプルな理由.
同世代が,NPO経営して,楽しそうに仕事としている,という

NPOを経営して,それが素敵な仕事で,報酬も平均値くらいはあり,ワクワク感がある.
NPOってだれも知らない時代は,自ら何かを仕掛ければ,それは新しいものを創る,だから.
まあ,今も同じ,か(%ニコ男%)
そんなNPOの基盤をつくる,が,今もNPOを経営してているルーツとして個人的には大きい.

震災復興(兵庫の場合ね)というのはズルイ面があって…
兵庫のNPOが行政系の資金を獲る大義名分になってて,NPOがその大義の旗を乱発・乱立した感があるから.
宝塚NPOセンターの理事兼フルタイムスタッフとして,県の委託事業まわしてて,いつまでも復興系のお金はあるから的な感覚には苛立ってた.

震災復興系の資金の余力があるうちに,NPO全体の基盤につながる,本来の中間支援系の存在意義を示せ(*`へ´*) ,と.

いわゆる「若いっ!!」という感じ.
(これも,今もそんなに変わんない,か...)

そして,余力があるうちに自主財源をつくり, 必ず来る行政系資金カットに備えないと,と.

そして,予測より1年早く,30%カットが県事業でおこる.
2008年2月.
宝塚NPOセンターは,翌2008年度600万円強の人件費を失う.
トップ2人の森さんと僕は,60〜70%の報酬カット.

この時,経済産業省事業のコンペで勝つことができた.
2006年1月設立のソーシャルデザインファンドの寄付基金とコンソーシアム組成事業,WEB関連事業,専門家ネットワーク,CSR連携で開設したインキュベーションなど,少しずつ仕掛けてたことが,次のチャンスにつながった.

そして,ひとつの集大成が,2009年2月の宝塚ホテルギャザリング.
その想うところは…また別の場所で.

その後,すぐ,森さんの病気が判明.
経済産業省事業が終る2011年3月までは,たとえ大喧嘩をしても続ける,との合意が崩れる.
完全に想定外...

となると…
僕が経済産業省事業に全力を投入へ,経営方針を変更.
翼が1つ,無理が効かなくなり.

経産省事業の契約母体はソーシャルデザインファンド.
契約時期も先,僕は代表理事,なんで当然,経産省事業をとる.

それは,すなわち,宝塚市の総合計画事業にタッチできなくなったということ.
もちろん,宝塚NPOセンターへの関与度は大きく落ちる.

もっと端的に説明すると,宝塚NPOセンターは,今の場所にとどまるという選択をし,僕(ソーシャル・デザイン・ファンド)は当初の予定通り進むという選択をしただけ.

まあ,ひとつの蜜月が終る.
NPO法人ソーシャル・デザイン・ファンドとNPO法人宝塚NPOセンターの,善良な蜜月関係というのは,”宝塚のNPOスピリッツ”では必須条件だった.

残念な面はもちろんあるけれど,仕様のない潔さ,な感じが殆ど.
森さんが抜群に素晴らしかったところは,「自由にやり」,と放任なとこ.
僕はそこまでの器は持てないだろう.

ここで少し脱線.

なんというか,森さんはすごい人だ,という人は多い.
森さんを軸とした宝塚NPOセンターは,確かに兵庫県の宝塚という地方都市で一時代を築いた.
それは,兵庫にとどまらず,全国の同業者に対してもそうだと思う.

その”すごい”という感想は,宝塚NPOセンターの事業のプレゼンや,”よそ行き”の森さんの講演からのイメージだと思う.

そのすごさの源は,当然,日々のNPO経営の積み重ね.
そのNPO経営の部分を知っているのは,僕しかいない.

試行錯誤を重ねながら,良きビジネスパートナーだったのではないかと(自分にはあまいので).

絶対に落とせないコンペを何度も勝ってきた.
全体の流れ,宝塚NPOセンターが特化するポジション,相手に信頼させるなにか,それらをすべて集約させて.
コンペの後の握手の意味を知っているのは,森さんと僕だけだったと思う.
贅沢でもあり,貴重な経験.
言葉で表現できないことだし,研修でも教えられない,僕だけに蓄積されているもの.

最後に話した時に「経営者とは孤独なものよ.結局,1人でもやるかどうか」というような話を.
あの時は,真意を分からなかったと思うけど,今なら少しは.
ま,基本中の基本なんだけど,実感としての程度に依存.

脱線よりも戻る.

2009年度は,ソーシャル・デザイン・ファンドの経営方法もがらっと変えた.
まわりが,ほんとに応援してくれて.多大な感謝!

結果,いくつものチャンスが生まれ,経済産業省事業も想定以上に,充実してきたし.
想定通りの離脱も,影響がないほどに,がらっと変わった.

そして,2010年3月に宝塚NPOセンター理事を退く.

2010年度はさらに前へ.
ASRANをしかけ.
ようやくNPOビルがみえてきた.
自主財源による中間支援系NPO経営もみえてきた.