義経・四国に上陸

日 時 平成23年4月4日(月)
場 所 甲東公民館
講 師 金生鐵夫氏(歴史研究家)
 平家物語の卷十一にあたる屋島の合戦に際し、ひよどり越えの
一の谷で勝利した源義経が平家を追って四国へ渡る様の解説が
ありました。
 義経達源氏方の軍勢は浪速(大阪)の渡辺・福島に集結し、船
を調達して平家が本陣を置く四国の屋島を攻める前夜に軍議が
開かれ、その席で軍監(鎌倉の頼朝から付けられた目付)の梶原景時が、進んだり引いたりしやすいようにと船に「逆櫓」を付けてはとの提案をするも、義経は戦の門出に退却を前提とするような策は弄するものではないと提案を一蹴したことから、義経と景時との仲が悪くなります。
 また船出の当日は六甲おろしが吹き荒れ、皆が出陣を躊躇する中、義経主従がわずか5艘で漕ぎ出して奇襲作戦を行い、ここでも義経は景時を無視したことから関係は決定的になります。

結局 義経の天才的な戦略によって、戦いは勝利しますが、
大将と軍監との仲は最悪となって、後日に禍根を残すことと
なり、これが義経に次々と悲劇を生むことになります。
 現代でも通ずることですが、結果は結果として評価すると
して、もう少し組織のコミュニケーションをうまくとる事が出来
なかったものかと思うしだいです。