藤原種継の暗殺と早良親王の悲劇

日時 平成23年6月17日(金)
場所 伊丹市立中央公民館
講師 大江 篤 (園田学園女子大学教授)
桓武天皇は仏教の勢力拡大を制限することと、より積極的に国政の転換を図り大乗院を平城に置いて新たな都を営むことによって、政教分離をはかる意図で長岡京に都を造営することに取り組む。
この工事責任者を藤原不比等の血をひく藤原種継に命じた。種継の母方は秦氏であることから援助を受けることも関係している。
 一方早良親王は桓武の弟で幼いころから東大寺に出家しており仏教に深く帰依していた,ところが思わぬ父(光仁)が天皇に即位したことから親王にそして皇太子に就く。
早良は桓武の政策の違いから桓武の意向くむ種継とも仲が悪くなっていった時期に種継が786年9月に造宮監督中に矢で射られ、翌日亡くなった。暗殺犯として大伴竹良らがまず逮捕され、取調べの末大伴継人・佐伯高成ら十数名が捕縛されて斬首となった。これらはとくに大伴、佐伯両氏が長岡遷都に反対していた人たちである。この事件の黒幕が早良皇太子と疑われ乙訓寺に幽閉され一切の飲食を拒み無実を訴えたが、淡路島へ配流される途中に餓死した。この時代同母の兄が天皇になれば次に弟が天皇につくことが慣例であったが桓武は二人の息子に天皇を継がせたく早良を葬ったとも言われている。この事件後桓武の周辺で次々と親族が亡くなりまた安殿皇太子(平城天皇)が病に臥すなどの不幸が続くことから神祇官に占いさせたところ早良の怨霊が祟りを起こしていると云われる。天皇はただちに淡路にある早良の墓に勅使を送り参拝をさせ、墓地には墓守をおいている。そして長岡京はわずか10年たらずの都として、その歴史の幕を閉じたが、早良親王の怨霊が平安京遷都の要因の一つとなったことは否定できない。
云われなき嫌疑をかけられた早良親王は誠に気の毒な皇太子でさぞ無念だったでしょう。