「飲酒運転の底辺にあるもの」 高知新聞社 社会部記者 竹村 朋子

(写真:東名高速富士川SA付近からの富士山・庵原郡富士川町)
「飲酒運転の底辺にあるもの」
高知新聞社 社会部記者
竹村 朋子
●彼は依存症だったのか
 平成16年9月、名神高速道路を東京方面に向けてひた走る大型トレーラーの助手席から見る風景は何ものにも視界を遮られず、反対車線の車の動きもよく見えた。トレーラーは前日の晩、高知港から大阪高知特急フェリー(昨年6月、燃料費高騰などで航路廃止)に乗船。

 この日の朝、大阪南港に着いたばかりだった。トレーラーが運んでいるのは、高知県内の農家がビニールハウスで作った野菜や花の園芸作物。何故、このトレーラーに乗ったのか。その理由は二ヵ月ほど前にさかのぼる。

 同年7月、高知市内は夏本番を前に、湿気を含んだじっとリとした暑さに包まれていた。この日は、高知アルコール問題研究所主催の、「高知酒害サマースクール」の開催日。強い日差しを受けながら高知市内の会場に向かった。酒が原因で起きるさまざまな害について考えるサマースクールに足を運ぶのは、この時が初めて。

 一、二週間ほど前、ある取材先で、「高知通運の社長(当時)がサマースクールのシンポジュウムに出るんだね」、という話を聞いたからだ。高知通運——。この社名だけではピンとこなくても、平成11年にトラック運転手が飲酒運転の末、幼い姉妹を焼死させた、あの痛ましい東名高速道路事故といえば、「ああ、あの会社」、と頷く人は多いだろう。

 事故発生当時、私は県内の支局に赴任中。事故は新聞報道やテレビで知っていたが、通運会社の取材に当たることはなかった。事故から四年目を迎えた15年5月、同社役員が高知市内で飲酒による追突事故を起こしていたことが発覚した。これを受け、県園芸連が県産の野菜や花を輸送していた同社との契約解消を打ち出した。

 この時、私は経済部に所属し、県園芸連を担当していた。契約解消を受けた当事者として、高知通運の社長の取材に向かったのが同社と関わりを持った最初だった。その時社長から、「数日間に及ぶ長距離運転の勤務中は、缶ビールを一本でも飲むと懲戒解雇する」ことや、「必ず対面点呼を行う」、といった飲酒運転の再発防止への取り組みを聞いた。

 当時、私はアルコール依存症という病気についての知識がなく、この対策にはそれなりの効果があるのではないか・・・、そんな風に感じていた。その年の夏、東名高速道路事故の民事裁判が終わり、社長は辞任。相談役(当時)になった。その前社長が法廷以外の公の場で初めて話しをする・・・。それがサマースクールだった。

 サマースクールの前に東名高速道路事故を振り返っておきたい。事故は平成11年11月28日、午後3時半過ぎ、東京都世田谷区砧(きぬた)公園の上り車線で起こった。トラック運転手(当時55歳)は前夜、高知港から大阪南港に向かうフェリーの中でウィスキーを飲んで就寝。その後、名神、東名高速道路を走った。

 昼食休憩で立ち寄った海老名サービスエリア(神奈川県)では、ウィスキー300ミリリットル、酎ハイ500ミリリットルを飲んで、さらに運転。前を走る普通乗用車の後部座席にのしかかるように追突して炎上させた。幼い姉妹が焼死、父親も大やけどを負った。逮捕された時、運転手からは呼気1リットル当たり0.6ミリグラムのアルコールを検出。

 当時の道交法では、0.25ミリグラム以上が酒気帯び運転とされていた。つまり、2.4倍もの数値だった。その後の警察の調べで運転手は、「仮眠の寝酒用にウィスキーをトラックに常備していた」、と供述した。何故、運転手は大量の酒を飲んで運転したのか。そこには単なる酒の飲み過ぎでは片付けられない問題があった。

 サマースクールのシンポジュウム。シンポジストの一人、高知通運の前社長はマイクを手に東名高速道路事故についてゆっくりと話し始めた。「なぜ、業務中に酒を飲んで運転したのかは分からないが・・・」、と前置きした後、運転手の人柄について触れた。

 彼は勤続35年、少し気が弱く真面目でどこにでもいる普通の運転手だった。あの事故までは無事故だったことを挙げ、「当時、報道されていたように、(彼が)常時飲酒運転をしていたなら無事故である訳がなく、周囲が気付いて解雇になっていたはずだ」、と語気を強めた。そして続けた。「ただ、背景があったんですねえ・・・」。

静まり返った会場に前社長の声が響いた。「(肝機能数値の)γ(ガンマ)−GTPが800(IU/I)あった」。ある内科医によると、γ−GTPの基準値は検査機器などによって異なるが、成人男性では60(IU/I)。100(IU/I)を超えると医師から節酒を勧められる。

 前社長は続けた。「大型トラックの運転手は年に2回健康診断を受けるが、会社がきちんと管理していれば事故は防げたかも知れない。我々の意識が低いために診断後は医師任せにし、会社として予防的なことをまったくしていなかった」。

 その言葉に対し、司会役の小林哲夫氏(当時、高知県断酒新生会会長)が説くように言った。「服役を終えた運転手は、その後断酒会に入って、『自分はアルコール依存症だった』、と認めましたよ。高知通運に入った時は依存症ではなく、勤務する間になったと思う。依存症の人は、上司や同僚の目を盗んで上手に酒を飲む。そりゃあ職場の見た目や普通の人では分からないですよ」。

 依存症とはどんな病気なのか。そして、彼が酒を飲むようになった仕事とは一体どんなものなのか。トレーラーに乗りたいと思った。
★全日本断酒連盟発行「かがり火 第132号」(2006年3月1日付)より転載

(写真:青果・花きの取扱い日本一の太田市場:大田区東海町)

●酒は命の水なんです
 平成16年9月。大阪高知特急フェリーのドライバールームは、一般客室に行く途中の目立たない扉の向こうにあった。扉を開けると、縦長の部屋がいくつか並び、カーテンの向こうには二段ベッドが見えた。ベッドの並んだ部屋を通り過ぎて廊下を進むと、少し視界が開けた。六畳ほどのカーペットが敷かれた談話スペースだった。

 三方を壁で囲まれ、くぼんだ棚にカラーテレビが置かれているだけの空間。その周りには、平成11年に飲酒運転の末、引き起こされた東名高速道路事故後、一時は販売中止になっていたビールの自動販売機があった。自動販売機には再び光がともっていた。

 ドライバールームで、翌日私をトラックに乗せてくれる運転手に簡単な挨拶をした後、私は一等寝台に上がって行った。この日は遠く南海上に台風が近づいていたが、それほど海は荒れてはいなかった。それでも船酔いに襲われ、早々布団の中にもぐり込み、眠りに就いた。

 翌日早朝、大阪南港に着く前にドライバールームに降りて行き、トレーラーに乗り込んだ。道中、運転手が教えてくれた。事故前は、談話室で酒を飲んで騒いでいた運転手がいたこと、事故後はそんな場面がなくなり、東京から帰りに寄る取引先にもアルコール検知器が設置されたこと。話をしているうちにトレーラーは東名高速道路を降りて、最初の目的地、横浜市内に入った。

 市場に着くと、運転手はトラックからひらりと飛び降り、注文票を手にコンテナから野菜の段ボール箱をどんどん降ろしていた。この日は曇り空で残暑も和らいでいた。市場の人と一緒に動く彼の赤紫色のTシャツは汗で色が変わっていた。続いて東京都の花き市場へ。再び荷物を降ろした後、築地市場近くに向かった。

 卸店で荷物を降ろし終わった時、時計の針は午後6時を指していた。大阪南港を出発してからすでに12時間近くが経っていた。「今日は楽よ。市場で手伝ってくれる人もいて、仕事も早く終わったし」。この後、彼はトラックの中で眠り、翌朝5時に起きて次の仕事に向かう。土曜日に高知を出てから、自宅に帰るのは早くて火曜日になるという。

 いくら酒に弱い私でも、すべての仕事が終わった後の一杯は美味しいだろうなと想像できた。東名の事故後、高知通運グループは、「数日間に及ぶ長距離輸送中、宿泊場所でビール一缶でも飲んだら懲戒解雇」、とした。私を乗せてくれた運転手が言った。「自分には家族がおるし、嫁さんの父親からも、『絶対飲んだらいかん』、と言われちゅう。自分の仕事が無くなったら、誰が家族を養うのか。自宅に着くまで(酒は)飲めんね」。

 私は、同じ年の6月に開かれた高知酒害サマースクールでアルコール依存症という病気を知るまでは、家族や自分の仕事のために飲酒を我慢することは誰でもできると思っていた。アルコール依存症と聞いて、多くの人はどんなことを想像するか。大抵の人は、「アル中」、「朝から晩まで飲んだくれている人」、「自分で酒を止められない意志の弱い人」、とイメージする。私も、この取材をするまではそうだった。依存症が病気であることも、その症状もまったく知らなかった。

 「(アルコール依存症者は)職場の見た目や普通の人では分からないですよ」。だから、高知酒害サマースクールのシンポジュウムで、小林さんが高知通運の前社長(当時)に投げ掛けた言葉がずっと頭の中に残っていた。サマースクールが終わった後、小林さんを断酒会の昼間例会の会場に訪ねた。

 眼鏡姿の小林さんは73歳。どこにもいそうな年配男性の言葉には、依存症から回復した者ならではの重みがあった。「この病気になる人は、真面目で頑張り屋が多い。失業や離婚などのストレスの発散法を知らないから、幸せな気分を求めて酒を飲むんです」。小林さんは40年間断酒を続けている。そんな彼でもコップ一杯の酒を飲んだだけで元の病気に戻るという。

 「アルコール依存症の人は、アルコールが血液の中にあるのが普通の状態になり、なくなるとイライラしたり、幻聴や幻覚が現れたり、手が震えてくる。それが、酒を飲むとピタリと止む。だから、繰り返し飲む。自分で酒がコントロールできなくなる、コントロール障害なんです」。小林さんが続ける。「シェクスピアは、『酒は悪魔の水』と言ったが、依存症者にとっては、『酒は命の水』なんです」。

 命の水・・・。何よりも酒を優先させ、酒を飲むためなら物事の判断価値、自分の行動の優先順位も変わる。昼食時にウィスキーや酎ハイを飲んで運転し、死亡事故を起こした高知通運の元運転手の行動は許されるはずもなく、まったく理解できない。しかし、アルコール依存症の症状と考えれば、死亡事故を起こすまでの行動の説明はつく。飲酒運転防止と一口に言っても、この病気を理解した上での根本的な対策が必要ではないか。そんな想いが湧いてきた。

 ちょうどその頃、バス業界でアルコール依存症を前提にした飲酒運転の防止対策を訴える人がいることを知った。JR関東バス元会長の山村陽一さん(63歳、東京都)。平成14、15年、バス業界は勤務中の運転手による飲酒事故が相次いだ。東名高速道路を運転中に現行犯逮捕された同社の運転手による飲酒事件は、新聞各社が社説でも取り上げるなど大騒ぎになった。トレーラーで東京に向かった時、その山村さんに会えることになった。
★全日本断酒連盟発行「かがり火 第133号」(2006年5月1日付)より転載

(写真:石鎚山を水源として土佐湾へ注ぐ仁淀川・高知県土佐市)

●動き出す 企業の取り組み
 平成16年9月、その日、高層ビルが建ち並ぶ東京・新宿は激しい風雨に見舞われていた。高層ビルの一室にJR関東バス元会長の山村陽一さんを訪ねた。

 山村さんは、同社の高速バス運転手が飲酒運転で現行犯逮捕された平成15年の暮れに同社を辞職。今は、民間会社の監査役を務めている。ソファーに座った山村さんは、よどみのない口調で事件を振り返った。

 平成15年8月、東京から大阪に向かって東名高速道路を走るバスに異変が起こっていた。蛇行運転を繰り返し、急に減速することもあった。110番通報を受け、警察官が現場に急行。当の運転手からは、呼気1リットル中0.85ミリグラムのアルコールを検出した。運転手は飲酒運転で現行犯逮捕され、鞄から酎ハイの空き缶、座席にはつまみのスナック菓子入った袋が見つかった。

 「国鉄時代にも西明石事件など、数々の飲酒運転事故がありました。でも、飲酒事故ほど難しい問題はないのです」。山村さんは東大で心理学を学び、昭和41年に旧国鉄に入社。以来事故防止対策に関わってきた。平成8年にJR関東バスの社長になり、同15年6月に会長に就任したばかりだった。

 当時、バスの運転手による業務中の飲酒運転が全国で相次いで発覚。山村さんは、飲酒運転はアルコール依存症との関連性が高いという前提に立ち、バス協会のマニュアル作りなどに尽力した。その最中の出来事だった。

 飲酒運転の現行犯逮捕は山村さんに大きな衝撃を与えた。「それまで毎日三合以上のお酒を20年間飲んだ人が依存症になると思っていたんです。つまり、早くても40代。ところが、彼は32歳だった。如何に私の知識が間違っていたかを思い知らされました」。

 事故後、山村さんは職員の聞き取りを進める中で、この運転手が試用期間中に酒の臭いをさせて出社したことがあったと知った。「職場では、お酒に対して寛容な雰囲気があった。酒の臭いがしても、『酒は駄目だ』、と注意するだけ。代わりに他の人を乗せていたんです。彼は静かに、じっくりと酒を飲むタイプ。大量に飲むが、周囲は誰もアルコール依存症の知識もなく、その可能性があるとは思わなかったのです」。

 事件前の彼は、酒の臭いをさせて出社することもなく、対面点呼でもおかしな点はなかった。しかし、・・・。「彼は目の充血を直すために目薬、酒の臭いを消すために口臭消しを使っていたんです」。同社の社員は飲酒運転をした場合、懲罰処分が科せられる。しかし、彼は罰せられることが分かっていても飲酒に走った。「アルコール依存症の症状の一つ、連続飲酒の発作が起き、サービスエリアに停車する度に飲んでいたのでしょう」。

 山村さんは続けた。「アルコール依存症になった本人にも問題はあるのですが、職場や地域が予備軍を作ってきた背景もあるんです」。さらに、会社では研修が終わると同僚と飲酒し、地域では青年団の会合といっては飲む日本の風習や、不況から人員を減らし、運転手の勤務体系がきつくなっていることにも触れた。

 その一方で、仮眠を取るため、また、ストレスを解消するために飲む酒はどこでも手に入る。しっかり酒量を調節して飲んでいた人も、いつ依存症になるか分からない時代になった。それだけに、山村さんはアルコール依存症者の早期発見の大切さを説く。ただ、飲酒者全員が依存症になる訳ではなく、対応は難しい。

 また、飲酒は個人の問題という考えが一般的で、企業はなかなか踏み込まない。しかし、山村さんは敢えて一歩踏み込むことを強く勧める。山村さんは、「解雇するなどの厳罰化は、飲酒運転の減少など、一時的な効果を生んでも永続性はない。そのうち、社内でかばい合いの雰囲気が生まれる」、と指摘した。

 さらに、こう続けた。「企業はその人を採用した責任がある。それに、職業運転手は同じ運輸運送業に就く可能性が高い。だから、病気を治療させたり、断酒会につなげるなど、病気から回復させて再就職させないといけない。それが飲酒運転の悲劇を社会からなくすことにもなるんです」。

 この話を聞いた一年半後の今年1月、再び山村さんを訪ねた。彼は、経営者の飲酒運転防止対策や飲酒問題の理解を深めてもらおうと企業や大学など、仕事の合間を縫ってボランティアで講演に回っていた。「私は自分の会社で依存症の運転手を見つけられなかった。その失敗談を赤裸々にすることで、少しでも飲酒運転を減らせればと思っているんです」。

 今年の4月、兵庫県警は、長距離トラック運転手の飲酒運転を黙認していたとして、1府6県の運送会社を家宅捜索した。これまで、職業運転手の飲酒行動に無関心だった経営者の意識転換を求める上でも大きな一歩だと思う。

 山村さんは、アルコール依存症をより深く知ろうと、アルコール薬物問題全国市民協会(ASK)など、飲酒問題に関わる団体を訪ねた。今回の家宅捜索を機に、山村さんのような意識を持った経営者が増えると、マスコミの飲酒問題への意識も高まってくる。そうなると、断酒会の存在意義は今まで以上に高まってくる。

 断酒会のマスコミへのアプローチとしては、現代社会の問題とアルコール依存症がどれだけ密接な関係にあるかを知らせることが大事だと思う。記者の殆んどは依存症の知識はないが、私がアルコール関連の記事を書くことで社会がより良くなればと願っている。

 この気持ちを良い意味で利用してはどうだろう。記念大会や講演会の取材といった機会を大事に、出会った記者に多くのことを教えていただければと思う。(完)
★全日本断酒連盟発行「かがり火 第134号」(2006年7月1日付)より転載