関が原の人々 「宮本 武蔵」

平成23年7月5日(火) 午後の部で実施
場所:明石市男女共同参画センター
主催:(財) 兵庫県芸術文化協会
講師:茨木一成氏 (日本歴史学会会員)
 今回は、日本人に大人気のあの”宮本 武蔵”です。武蔵は、
吉川栄冶が朝日新聞で、1935年8月から4年間も続けた大衆
小説の代表作です。しかし、吉川栄治の小説は1941年から
初まった太平洋戦争は仕方が無いと正当化するもので、武蔵と
太平洋戦争とは全く関係ありませんと講師は怒っていましたが、私もそう感じました。
 また実際の武蔵の行動は、最後の5年間を過ごした細川家の古文書に残っているそうです。それによりますと、世の中でどちらが強いのかが問題になり、巌流島に一人で来る約束で試合をした。しかし、武蔵は約束を破り弟子を連れてきていた。武蔵は小次郎を打ったが、しばらくして小次郎が生き返ったので、武蔵の弟子達がよってたかって殺してしまった。それに気づいた小次郎の弟子達が怒り、武蔵を討つために島をめがけました。そして、進退窮まった武蔵は近くの門司の沼田延元に救いを求め、命びろいしました。その後、大阪を経由して江戸に逃れ女朗屋の雲井の用心棒とか、道場破り等で生活費を稼いだようです。また、1640年細川家の客人として招かれ、最後の5年間を過ごしました。死後も細川家を守りたいとの遺言で、細川家の近くに埋葬されています。
 武蔵の性格があまり良くないのは、生まれつきであり、13才の時に村から追放されています。しかし、剣の道を極めようとしていたのは確かで、最後の2年間で(五輪書)を書上げています。
 現在の政治家は政治を極めようとしないのは、残念ですが。