「家族にも境界がある」 親の役割と子どもたちの自立

(写真は羊蹄山の清流を集め日本海に注ぐ尻別川)—>
2011年8月9日
「家族にも境界がある」
親の役割と子どもたちの自立

 夏休みに入り、毎日のように次女と孫たちがやって来る。長男が幼稚園の年長組、二男が三歳で末っ子の三男が間もなく五ヵ月になる。時々長女の孫たち二人も押しかける。上が女の子で小学一年生、下のオトコの子は一歳。玄関を入ると、元気な声で、「コンニチワー、コンニチワー」。我が家に来てからの20−30分はジイジとバアバの様子を窺っているのか、遠慮をしているのか、実におとなしくてとても可愛いものだ。

 戦後のベビーブームに生まれた団塊の世代も今やアラ環世代と呼ばれ、今や孫育ての真っ最中。そんな我々からすれば、孫を叱る時は分かりやすい言葉でキッチリと叱り、褒める時は大きな声でハッキリと褒めてあげたいと願っている。

 ところが、一番年上の女の子がリーダーとなって家の中を遊び回る。オモチャを取り出しては床に散らかし、絵本は読みっぱなし。折り紙と切り絵を始めると、床にセロテープを貼りつける、紙切れはテーブルや床に散らかり放題。一人が走り出すと全員がその後を追う。三輪車を乗り回す。小さなオモチャは床に散らばったまま。

 バアバは、走り回る孫たちに注意をしてはオモチャの跡片付けに忙しい。それでも孫たちと一緒におれるのが嬉しいのか、結構楽しそうに孫たちと遊んでいる。こうなれば、ただうるさいだけのチビッ子ギャング。ちょっと大声で注意したいところだが、ジイジはひたすら辛抱する。

 それでも一向に静まらない孫たちに辛抱しきれず、走り回る孫たちの前に立ちふさがる。注意のつもりがつい怒鳴ってしまうこともある。バアバに、「あと5、6年もしたら、見向きもしなくなるよ」、と説得されるが、その5、6年が早く来て欲しい。

 一方、娘たちはどうか。孫たちの世話をバアバと分かち合い、我が家でお昼の食事をともにする。孫たちは冷蔵庫から好みのアイスクリームを目敏く見つけては自由に取って食べる。娘は、実に上手くというか、ものの見事にバアバを助っ人として使い切っている。バアバと娘とは、実に不可思議な関係だ。

 私は時々、夕刻から出掛けることがある。先ず、うるさい孫たちから逃れるように風呂に入る。夜の9時半過ぎに帰宅するが、まだ娘たちがいることもある。すでに、夕食とお風呂は済ませている。やがて、「ハイ、さようなら、また明日もよろしくネ」。ジイジの夕食を用意すると、バアバは終い湯に入る。夕食をしながら周りを眺めると、「夏草や 兵どもが夢の跡」。

 「そんなチッチャなことぐらいで、細々と言いなさんな。孫が来てくれて、楽しいやないの」、とカミさんは言う。こんなやりとりがきっかけで、夫婦喧嘩になることも。親子の間にも境界があるってことを、娘も理解してくれていたらと思うのは、ジイジだけなのか。バアバには、孫のしたい放題をまったく苦にする様子もなく、親子の境界を意識することなど毛頭ない。

(写真は名寄市中心部を流れる天塩川)——>

 平日の午後三時、民放テレビ局の番組の中で子どもたちがケータイで母親にその日の夕食の献立を訊くコーナーがある。子どもたちの話し方を聞いていると、電話の相手が友だちかと思うほど。受け答えする母親も、「これが現在(いま)の親子よ」、と思わせるように会話を楽しんでいる。

 しかし、二人の会話には親子の境界を感じる言葉使いが少しはあってもいいのでは。いくら親子とはいえ、適当な距離を置きながら、母親として子どもたちに接する姿勢が欲しい。親しき仲にも礼儀あり。開けっぴろげで気取らない関西弁の会話が二人を気楽にさせるのか。

 あまりにも近過ぎる母親と子どもたちの親子関係、という印象が強く残る。もの分かりのよい母親と思われたいのか、はたまたそうありたいと願うのか。何故か納得のいかないものが残る。とすれば、親子の関係がこのままでいいのか。

 我が家でも、カミさんと娘との接し方にもルールがなく、親子の境界もない。ジイジとして言いたいことが他にもあるが、親子の関係にヒビが入ることへの心配が先に立ち、なかなか言い出せない。一方、娘の方にも、これでいいのと思ってはいるが、ジイジやバアバに対し口にしにくいことだってあると思う。

 バアバにとっては、孫たちはこの上なく可愛くて、過度と思われるほどの可愛がりようだ。さらに、娘たちの日常に対しても実によく世話をする。家事を手伝い、一緒に買い物に出掛けたりは日常茶飯事。バアバと娘たちは、お互いにあるべき境界を乗り越えて、双方の領域に入り込んでいるように映る。

 従って、孫たちの世話や娘たちとの関わり方はどうあるべきか。私たちの健康と家計の状況でその内容は違ってくるが、ジイジとバアバが関わり過ぎることで、却って娘たちの自立への道を閉ざすことにならないか。娘たちの真の自立を願うなら、ジイジとバアバはどうあるべきか、今一度考えてみたい。

 娘たちの本当の幸せを願うなら、先ずは境界を踏み越えてお互いの領域に踏み込まないこと。次に、過度な関わりや金銭的援助をすることは極力差し控えたい。ジイジが幼い頃、欲しいものもなかなか買ってもらえなかった。しかし、貧しさゆえの逞しさとでもいうか、ジッと我慢して、本当に欲しいモノだけを手に入れた時の、ささやかな幸せを経験している。

 ところが、親子関係はこうあるべきといくらジイジが言ってみたところで、カミさんや娘たちが同調しなければ事は前に進まない。とすれば、ジイジがこれまでにない行動で、親子の関係を変える努力をする。本音をぶつけ合い、じっくり話し合ってみたい。そんな機会をじっと待つことにする。

 いずれ孫たちは、こちらを見向きもしなくなる。その時、ジイジやバアバに生き甲斐があれば、二人だけの暮らしになっても不安はない。今からその準備を始めるか。家の中を騒ぎ回る孫たちが、これからの人生を考えさせてくれた。(了)