関が原の人々 「真田 昌幸」

平成23年9月6日(火) 午後の部で実施
場所:明石市男女共同参画センター
主催:(財) 兵庫県芸術文化協会
講師:茨城一成氏(日本歴史学会会員)
 真田氏の時代は、豊臣が天下をまもなく治めるころで、昌幸
は豊臣秀吉の命で大阪城に赴き、豊臣秀吉の臣下となります。
 「沼田城」は秀吉の命で北条氏に引渡しますが、すぐ近くの
「名胡桃城」は真田のものとされました。しかしこの「名胡桃城」
を北条氏が搾取、怒った秀吉は北条氏の拠点「小田原城」を攻め、北条氏を滅ぼします。これにより「沼田城」は再び真田の治めるところとなり、昌幸の長男「信之」が徳川の幼女の「小松姫」を迎え沼田城主となります。これにより徳川との縁が構築されました。しかし、太閤”秀吉”の死により天下泰平は長くは続かず、時代は天下分け目の戦い、関が原に向かいます。そのころ、徳川の命令で合津攻めに向かっていた昌幸は石田三成からの協力要請を書状にて受け取ります。昌幸は息子の「信之」「信繁」と親子三人で話合いを行い、昌幸「信之」は豊臣方、長男「信之」は徳川方につくことに決めました。それは、両方の恩義に報いるためと真田家を残すための策略ですが、その策略は真田氏を発展させると共に、全国に真田氏の名を響かせました。 真田氏は自分の敵を出来るだけ作らないように心がけました。 野田政権は党内融和優先ですが、そのことは政策実現の弾みにはなるかとは思いますが・・・? 増税にしても{遠からず増税}とか言わないで、行政改革を行った後に、口にすることかと思われるしだいです。