『もっと元気にな〜あれ』(その3) 「こんなものが宝モノ?」

(写真は年に2回花を咲かせる珍しい桜・徳島県勝浦郡上勝町)
2011年9月26日
『もっと元気にな〜あれ』(その3)
 「身近にいくらでも、こんなものが宝モノ?」
 (徳島県勝浦郡上勝町)

 あれを作ってもダメ、これを作ってもダメ。都会に近ければまだしも、これといった特産品をもたない山村での農業は厳しい。男性は、四国の山あいの町で営農指導していた。少しでも収入を増やそうと、カネになる作物を懸命に探したが、すべてうまくいかなかった。

 出張で訪れた大阪で、すし屋に入った。近くに若い女性のグループがいた。料理に添えられた葉っぱを褒めている。「きれいね、きれいねえ」。会話を聞きながら、ひらめいた。今まで売れるとは気づきもしなかった。葉っぱなら、村にいくらでもある。やり方次第でカネになるかも。どんな葉っぱが売れるのか、自腹での料亭通いが始まった。

 山村だから斜面も多い。日向もあれば日陰もある。モミジやツバキも一番適した場所で栽培する。場所に適した木を選び、丹精込めて育てる。季節に合わせ、形と色鮮やかな葉っぱだけを揃えて出荷した。厳しい品質検査が評価され、料理に添えられる葉っぱの売り上げで、全国の6割以上を占めるまでになった。女性の会話がきっかけとなったまちおこしを、次に紹介させていただきたい。

●『この葉っぱ 笑顔と誇り』
 「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信②」
 (2009年7月16日付け朝日新聞より引用)

 四国山地の谷あい、徳島県は上勝(かみかつ)町。ここのお年寄りたちは、とびっきりの笑顔にあふれる。自然の恵み、「葉っぱ」で心も体も潤っているのだから。かつて、この町は暗かった。林業はダメ、ミカンもダメ。若い者は町を見切り、仕事を求めて大阪や東京にでた。30年前、農協職員だった横石知二(50)がやって来なければ、お年寄りのたちの笑顔はなかったかもしれない。

 当時20歳の横石は、営農指導をしてくれ、と招かれた。ある農家で、母親が子どもをしかっていた。「勉強せんかったら、こんな町にずっと住むようになるんでよ」。横石は、悲しみとも怒りともつかない感情をおぼえる。「生まれ育ち、住んでいる町を否定する。それは、自分の人生を否定することだ。こんな寂しいことがあっていいのか」。

 86年、出張で大阪を訪れた。食いだおれのまち、道頓堀のすし屋に、青果市場の担当者ら3人で入った。斜め前に、若い女性3人のグループがいた。一緒にいかがですか、と声をかける機会をうかがう横石の耳に、こんな言葉が飛び込んでくる。「これ、きれいねー」。女性の手もとには、料理に添えられた真っ赤なモミジがあった。「そんな葉っぱ、上勝の山にいくらでもあるのに・・・、これだ、葉っぱを売ろう!」

 上勝に帰り、農家に話を持ちかけると、諭された。「横石さん、まじめに仕事せな、あかんでよ。タヌキじゃあるまいし、葉っぱがお金にかわるかよ」。なんとか4人の農家が出荷してくれたが、売れなかった。虫に食われるまま、大きさもまちまちに出したからだ。どんな葉っぱが売れるのか。横石は、自腹で各地の料亭に通いつめる。体重は20㌔増え、痛風になった。ツバキやモミジを手塩にかけて栽培し、四季にあわせた葉っぱをそろえた。軌道に乗っていく。

 96年、横石は農協に辞表を出した。3人の子どもの将来を考えると、農協の給料では心もとなかったのだ。その翌日、出荷農家のリーダーから封筒を手渡された。中には慰留の「嘆願書」が入っていた。出荷農家177人全員の署名と押印、そして、「上勝を捨てないで」など、一人ひとりのコメントが添えられていた。辞表提出を知った農家が手分けして、一晩で集めたのだ。横石は大泣きした。そして、上勝町の職員になる。

 99年には、町出資で設立した葉っぱビジネスの第三セクター、「いろどり」の取締役に。いまや、日本料理に使う葉っぱでは、全国の7割を占める。出荷農家の平均年齢は70歳を超えるが、年収1千万円超えの人もいる。葉っぱの成功で、都会から子どもたちが帰ってきた。お年寄りの表情がほころびはじめる。

 横石の胸には、血管を広げるチューブが6本入っている。6年前、過労による心筋梗塞で倒れたため。がむしゃらに走り続けてきた横石の身体は、50歳にしてボロボロだが、相変わらず葉っぱビジネスに忙しい。「農家から、上勝を誇りに思う、などと感謝の手紙がくる。一番のごほうびです」。(神田誠司)