『アンコール・ワットを訪ねた日本の武士をめぐって』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第6回講義の報告です。
・日時:10月25日am10時〜12時10分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「アンコール・ワットを訪ねた日本の武士・森本右近太夫をめぐって」
・講師: 中尾 芳治 先生(元帝塚山学院大学教授)
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*中尾先生の「アンコール遺跡」の講義について…4月26日の講義では、”カンボジアの歩み、ビデオによるアンコール・ワットなどの紹介、遺跡の保存修復について」。今日は、第二回の講義で、”アンコール・ワットを訪ねた森本右近太夫をめぐって”。

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.アンコール・ワットの墨書(”落書き”)
○A号
(大意)日本の肥州(肥前あるいは肥後国)の住人である藤原朝臣森本右近太夫一房は、寛永九年(1632年)正月にはるばる数千里の海上を渡って、この御堂(祇園精舎)に参詣し、摂津池田の住人である父森本儀太夫一吉の現世利益と、尾張名古屋出身の亡き母明信大姉の後世のために、四体の仏像を奉納したことを書くものである。
寛永九年正月二十日

○アンコール・ワットの墨書(落書き)が14ヶ所にある
・アンコール・ワットの十字型回廊の壁や柱などには、日本参詣者の墨書跡が14ヶ所残っている。
・慶長十七年(1612)、寛永九年(1632)など17世紀前半頃に、肥州・堺州・城州(京都)・大阪の武士や商人たちが単独あるいは集団で、また夫婦でアンコール・ワットを訪ねている。

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2.なぜ、多くの日本人がはるばるアンコール・ワットに参詣したのか
(1) 「御朱印貿易の時代」
・朱印船とは16世紀末から17世紀前半にかけて海外渡航許可の朱印状を携えて貿易をした日本の商船のことで、文禄元年(1592年)頃に豊臣秀吉は最初の朱印状を下付(かふ)した。このやり方は、徳川幕府にも受け継がれ朱印船が東南アジア各地に航行し活動していた。
・当時の朱印船貿易を通じて、多くの日本人が東南アジア各地に渡航し、日本人町をつくって活動した。⇒カンボジアにはメコン川とトンレサップ湖に通ずるトンレサップ川の交わる河港プノンペンと、当時の首都ウドンの東南数キロに位置するビニャールーに日本人町があった。
・[時代背景]
‐豊臣秀吉が全国を統一(1590年)
‐関ヶ原の戦い(1600年)
‐徳川家康が徳川幕府を開く(1603年)
…キリスト教の布教や貿易活動などで多くの外国人が来航。外国と日本との往来も盛んで、朱印船貿易で東南アジア全域に広がり、そこには日本人町がいくつもできていた。

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(2)アンコール・ワットを、仏教の聖地である「祇園精舎」の遺跡と考えていた。
・水戸市にある彰考館には「祇園精舎絵図」が所蔵されている。
・伊藤忠太博士は早くから、この絵図面をアンコール・ワット説を唱えられた。
・この絵図面の裏側に由来が書いてある。
(概略)「藤原忠寄の祖父忠義が、正徳五年(1715)長崎において、ある男が所蔵していた絵図から転写。…その絵図は大通辞島野兼了が天竺の祇園精舎に渡航し、そこで模写した絵図面であると述べている。」
・いつの時代かわからないが、日本人航海者が朱印船貿易以前からその壮大なアンコール・ワット寺院の噂を聞き及び、早くからメコン川をさかのぼり、海ほどの広さのトンレサップ湖を渡り、密林の中に分け入ったことから、地理的感覚としてアンコール・ワット周辺を天竺(てんじく)と考えたのであろう。往時の日本人が壮大なアンコール・ワットを祇園精舎と誤り信じていたこともむりからぬことであろう。(石澤良昭・上智大学教授)
●祇園精舎絵図の製作者・島野兼了は偽名ではないか
・諸史料では、どこにも島野兼了の名は出てこない。
○「祇園精舎絵図」の作成者は森本右近太夫か?
①松浦静山『甲子夜話』巻21
・祇園精舎の絵図の存在が記録されていた。。
・「甲子夜話」にいう「森本儀太夫の子宇右衛門が祇園精舎を訪ね、伽藍の様を図記にして持ち帰った」。⇒宇右衛門=右近太夫ではないか。
②森本儀太夫の経歴
・加藤清正の武将として活躍、普請奉行として築城に名を残す。
・森本右近太夫(=宇右衛門)は、父儀太夫から学んだ築城術(土木・建築技術)により「祇園精舎図」を「日本の寸尺を以って」作図したのではないか?

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(まとめ)
鎖国令の厳重な取り締まりの中で海外渡航歴を隠す必要があった。
・海外渡航歴を隠ぺいするため、右近太夫は改名したうえで俗名なしのままで埋葬された。
②「甲子夜話」(1820年頃)…森本字右衛門がアンコール・ワットへの渡航の事実が記載。
③祇園精舎絵図の製作者・島野兼了が偽名(諸史料に名前がでてこない)としたら、字右衛門(=右近太夫)ではないか。

⇒アンコール・ワットに残された日本人墨書は、何を語っているのでしょうか。これからも、疑問に対して、どのよう証明していくか−新しい史実や新考察−という歴史調査が続けられます。…今日の講義では、いろいろな史実(断片的な記録など)から、考察していく面白さ、証明の難しさなど、歴史研究の奥の深さを知りました。
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(%ノート%) 歴史コースの次回講義(案内)
・日時:11月1日(火)am10時〜12時
・演題: 「中世前期の高野参詣とその巡路」
・講師: 堀内 和明先生(河内長野市文化財専門委員)