谷崎潤一郎 〜『蘆刈』と船場〜

(%紫点%) 後期講座(文学・文芸コース)の第6回講義の報告です。
・日時:10月27日(木)午後1時半〜3時半
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「谷崎潤一郎」〜『蘆刈』と船場〜
・講師: 三島 佑一先生(四天王寺大学名誉教授)
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[谷崎潤一郎・略歴]
・1886年(明治十九年)〜1965年(昭和四十年)
・1886年(明治19)1歳:東京・日本橋蛎殻町生まれ
・1908年(明治41)23歳:東京帝国大学に入学
・1923年(大正12)38歳:9月1日関東大震災。一家を挙げて関西に移住
・1933年(昭和8)48歳:兵庫に転居
・1944年(昭和19)59歳:熱海に疎開
・1945年(昭和20)60歳:岡山県津山市、勝山町に疎開
・1946年(昭和21)61歳:京都に移る
・1949年(昭和24)64歳:文化勲章
・1950年(昭和25)65歳:熱海に別邸。夏冬をここで過ごす
・1965年(昭和40)80歳:湯河原の自宅で死去
*東京日本橋の生まれ。関東大震災後、関西へ移住。戦中の岡山(津山市・勝山町)への疎開から京都、熱海へと移り住んでいます。
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[作品・年譜]
・「刺青」(1910年)、「少年」(1911年)
・「痴人の愛」(1924年)、「卍(まんじ)」(1928年)、「蓼喰ふ虫」(1929年)
・「吉野葛」(1931年)、「蘆刈」(1932年)、「春琴抄」(1933年)
・「文章読本」(1934年)、「猫と庄造と二人の女」(1936年)、
・「潤一郎訳源氏物語」(1939年)
・「細雪」(上巻1944年、下巻1948年)、「少将滋幹の母」(1949年)
・「鍵」(1956年)、「瘋癲老人日記」(1961年) 他
*大正の中期までは、「刺青」や「少年」など、耽美と背徳の空想的な世界を華麗に書きましたが、大正の後期から日本的な伝統美に傾倒して、王朝文学の息吹を現代に生かした新しい境地を開きました。
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(%エンピツ%) 講義の内容
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*右の写真は、三島先生が持参された谷崎潤一郎自筆の『蘆刈』の生原稿で、当時、印刷して発売され、古本屋で購入されたものです。当時でも、生原稿で印刷されることはめずらしく、読みやすい字です。
*また、谷崎潤一郎は、1日に書くのは、原稿用紙3枚。”推敲に推敲をかさねています”。それゆえに、生原稿を発行することが出来たのでしょう。
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1.『蘆刈』について
*『蘆刈』・・・1932年(昭和七)11月、「改造」(12月)に「蘆刈」を発表
(1)本文
(冒頭文)⇒「君なくて あしかりけりと 思ふにも いとと難波の うらはすみうき 
まだをかもとに住んでゐたじぶんのあるとしの九月のことであった。あまりに天気のいい日だったので、ゆうふこく、といっても三時すこしすぎたころからふとおもひたってそこらを歩いてきたくなった。・・・」

(終りの文)⇒「いまでも十五夜の晩にその別荘のうらの方へまゐりまして生垣の間からのぞいみますとお遊さんが琴をひいて腰元に舞うをまはせてゐるのでござりますといふのである。・・・お遊さんは八十ぢかいとしよりではないでしょうかとたづねたのであるが・・・をとこの影もいつのまにか月の光に溶け入るやうにきえてしまった。」

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2.大意
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*右は1927年(昭和二、42歳)頃の谷崎潤一郎の写真です。[現代日本文学体系・谷崎潤一郎(一)、昭和四十九年 清興社発行より]
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・紀行文から夢ともうつつともつかない幻想的な物語。
・舞台は、山崎から水無瀬にかけての淀川の中洲−木津川、桂川や宇治川が合流するーあたりとなっている。
・男は少年の日、十五夜の晩になると父親に連れられ巨椋池(おぐらいけ)のとある邸宅を覗き見に行った。そこで、父(慎之助)が憧れているお遊さんが月見の宴で琴を弾いていた。父は若いころ芝居小屋でお遊さんを見初めるが、相手はすでに子持ちの未亡人であった。父はお遊さんとの結婚を望むが、結局、お遊さんの妹おしずを妻にもらうことになる。・・・姉思いの妹との関係がかたられてゆき、その息子であるこの男はだれの子供なのか、未亡人はもうすでに高齢になっているのではないかとという疑問を残しながら、男は消えていく。
・姉(お遊さん)・妹(おしずさん)→船場の深窓の中で育まれそうな純粋無垢な女として描かれる。
・この作品は、能「蘆刈」「江口」または「大和物語」(第148段)などの影響を受けています。.

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3.まとめ
①谷崎潤一郎の代表作…「蘆刈」「春琴抄」「細雪」の背景
・谷崎が関東大震災(大正十二年)で関西に移住。
・その当時の大阪は、人口・面積とともに日本一の大大阪時代であった。(「東洋一の商工地」「煙の都」「東洋のマンチェスター」と称せられる繁栄を謳歌)
・谷崎が大阪に来てみると、大坂城のある上町台地より下町の船場が大阪の中心として尊重され、そこでは武家社会の殿様・奥方・お姫さまに対して、旦(だん)さん・御寮人(ごりょん)さん・いとさん=とうさん、こいさん、ぼんぼんと呼ばれる船場商人の城ことばが形成されているのに強い羨望を覚えた。
・谷崎は船場の大店(おおだな)の御寮人さん・根津松子夫人に強烈な思慕の念を抱く。⇒こみ上げる熱情を『蘆刈』ではお遊さんに、『春琴抄』では春琴に造形し、作品を発表した。
②『蘆刈』は、なかなか難解な小説です。
・根津松子夫人への純粋、あこがれ、崇敬、尊敬を取り入れた作品といわれていますが、読んでも幻想的でわかりにくいストーリーです。
・発表された1932年ごろの評論家においても、6人中五人が評価していません(”退屈に感じる”などの批評)。しかし、一人は絶賛しているとのことです。
③谷崎潤一郎の芸術至上主義
・『蘆刈』を書くために、古川丁夫子(とみこ)と結婚→(古川さんは、谷崎小説のファンであった。作品のおしずさんにあたる人の役割)→作品が出来あがると離婚した。
(作品の”おしずさん”にあてはまる人として、古川さんと結婚しないと作品が書けない。)
・谷崎は小説を書くためには、ひたすら献身努力した。→谷崎に対して、讃美もあれば、誤解もある。→ 「恥をさらけだしてこそ、人を感動させる」。弱点を逆手にとって、表に出し恥を書く。→いろんなことを言われ、悪口を言われようが、作品は崇高なものを書く。
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(%ノート%) 文学・文芸コースの次回講義(案内)
・日時:11月10日(木)午後1時半〜3時半
・演題: 「万葉空間」〜万葉集の世界に遊んでみませんか〜
・講師: 辻 孝子先生(カルチャー講師)