『中世前期の高野参詣とその巡路』

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第7回講義の報告です。
・日時:11月1日(火)am10時〜12時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題:中世前期の高野参詣とその巡路
・講師: 堀内 和明 先生(河内長野市文化財専門委員)
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[時代背景] 中世前期(平安時代後期〜鎌倉時代)
摂関政治の全盛(1016年:藤原道長、摂政となる。)
【摂関政治…天皇の外戚(外祖父)が天皇の後見人として政務を代行するシステム。「摂政」は、天皇が幼少であったり女帝である際にもうけられ、聖徳太子、中大兄皇子のように皇太子が就任するのが通例であったが、866年、清和天皇の外祖父・藤原良房(よしふさ)が臣下で初めて摂政につく。「関白」とは、成人した天皇のもとで摂政同様の職務を行なう官職をいい、藤原基経(もとつね)(良房の息子)の時代に設置された。以来、摂政・関白は藤原氏(北家)の世襲となり、11世紀末まで150年間続く。】
院政(1086年:白河上皇が院政をはじめる。)
【院政…天皇が「上皇」(譲位後の天皇の呼称)や「法皇」(上皇が出家したときの呼称)となって実権を握り、国を統治する政治形態。摂関政治が衰退し、院政が開始されるのは11世紀末。8歳の息子堀河天皇に譲位した白河上皇が、院庁(いんのちょう)を開設した1086年を院政のはじまり。院政は、白河・鳥羽・後白河上皇と3代約100年にわたって続く。】

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.大阪府下3つの高野街道(右地図参照)
東高野街道…京都から石清水八幡、洞ヶ峠(京都府と大阪府の境)、生駒山西麓を南下し、大和川を渡り、河内国府(こう)(藤井寺)、富田林寺内町を経て、河内長野で西高野街道と合流。
中高野街道…平野(大阪市平野)からまっすぐ南下する街道で、松原市阿保、堺市美原区船渡池、菅生(すごう)神社、狭山(大阪狭山市)通って河内長野市楠町で西高野街道と合流。また、天王寺からまっすぐ狭山に向かい、西高野街道と合流するルートもある。
西高野街道…京都から淀川を船で下って大阪に上陸し、四天王寺、住吉大社にお参りしてから、堺に出る。堺の大小路から仁徳天皇陵の北で竹内街道と分岐し、南東にまっすぐ河内・和泉の国境に沿って進み、河内長野市楠町で中高野街道、河内長野駅付近で東高野街道と合流。

*高野街道…平安時代後期にできる。(「街道」は近世のことばで、中世は「大道」。)

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2.高野参詣の巡路
○摂関政治期(11世紀中頃〜)の巡路「和泉路」(右・巡路表1参照)
・治安三年(1023)「藤原道長」の巡路
・永承三年(1048)「藤原頼道」の巡路など
○白河院政期(11世紀末頃〜)の巡路 「大和路」(右・巡路表2参照)
・寛治二年(1088)「白河院」の巡路→藤原摂関家の巡路(和泉路)から(大和路)に変えている。
・天治元年(1124)「鳥羽新院」の巡路…白河院の巡路に従う
○鳥羽院政期以降の巡路 「河内路」
・長承元年(1132)「鳥羽院」の巡路→白河上皇が亡くなり、鳥羽院政期に入ると、「大和路」から「河内路」に変えている

*「巡路を変える意味」 ⇒ ”時代(権力)が変わったことの宣言につながる”

「高野参詣のあれこれ」
・往復日数:約1ヶ月(25〜26日間)
・上皇、法皇と貴族が参詣。(天皇は行かない←天皇は都(みやこ)から出ないのが原則)
・お供の人数:700〜800人、上皇が行く場合は、約1000人
・一日の行程距離:約50km【(例)天王寺3/13→住吉《河内路)→政所(九度山・慈尊院)3/14】(朝2時頃、天王寺を出て、その日にうちに政所(慈尊院)に着くというかなりの強行軍。気絶する人もいたらしい。上流階級は、馬か輿に乗るが、当時の馬の一日行程の限度が約30km。当然のことながら、途中で行幸列の食事と人夫・馬蹄の継ぎ立てが不可欠となる(宿駅))
・高野山では上皇を含め歩行:【(例)政所3/14(歩行)→中院3/15→奥院(埋経)→中院3/16(歩行)→政所(3/17)】(徒歩は修業の意味がある。高野山の滞在は2日間)
帰路は「精進落とし」で、結構、楽しんでいます。

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3.公卿日記に書かれた高野参詣
・右は、藤原頼長(内大臣)の日記「台記」です。[久安四年(1148)三月条]
「十二日 天王寺に宿す。十三日 住吉に詣で、河内路を経て、政所(九度山慈尊院)に着す。十四日 歩行にて中院(伽藍)に着す。十五日 歩行にて奥院に参り、経供養をすませて中院に帰す。十六日 歩行にて政所に着す。・・・(中略)・・・十七日 粉河に詣で、羽崎に宿す。十八日 、吹上浜・和歌浦を見て、羽崎に帰す。十九日 雄山(中山峠)を経て、天王寺に帰す。今夜、舞人公方(男)を召し、通わんと欲す。明日入堂すべきに男犯猶以て不浄の夢みる。二十日 遊女群来、賀島辺に宿す。 二十一日 柱本辺に宿し、今夜、秘かに江口の遊女を船中に召し、これと通う・・・・・」

*上流貴族の公卿日記は、子供や孫に、宮廷行事や人間関係、政界遊泳の参考資料となるように書き残したものです。男色日記を残しているのは、少しも恥とは思っていない。恥どころか、そこに政治的行為である側面を意識していればこそ、子孫にために書き残したのでしょう。【(注)頼長の日記「台記」は、詳細な記事が特徴で、保元の乱にいたるまでの政治動向を知る重要な史料です。】

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4.まとめ
①高野山への参詣は、平安時代後期から盛んになり、そのため、京・大阪からの都と真言宗の聖地「高野山」を結ぶ街道(高野街道)が開発。
②治安三年(1023)、藤原道長が高野詣に行って以来、藤原家の人々や白河上皇・鳥羽上皇など皇族や貴族がたびたび高野山に参詣しています。
・長承元年(1132)鳥羽上皇「河内路」による初の参詣。(白河院政期の「大和路」から「河内路」に変える。)→その後は、上皇・法皇、貴族の参詣は、ことごとく河内路(西高野街道)を経由することになる。その結果、高野参詣(宿所は四天王寺と九度山の政所)の中継点として長野(河内長野)が栄える。
③高野山参詣は、 「政治的なデモンストレーション」です。政治権力を誇示するために、700人〜1000人という行列で、高野山をめざしています。
公卿日記【「台記」(藤原頼長)、「山槐記」(藤原忠親)、「中右記」(藤原宗忠)など】は、当時の政治・社会状況を知る重要な史料となっています。
⑤高野詣に庶民が行くようになるのは、室町時代からです。
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(%ノート%) 歴史コースの次回講義(案内)
・日時:11月8日(火)am10時〜12時
・演題: 「渤海国・渤海使」(プロジェクターを使い、パワーポイントによる講義)
・講師: 上田 雄(うえだ たけし)先生 (日本海事史学会理事)

【渤海国・渤海使について】
・知られざる国[渤海国]…建国:698年 首都:上京竜泉府(現在の中国・黒竜江省牡丹江市)
・渤海使…727年〜930年(203年間)に43回(5年に一度)⇔遣唐使は、209年間に15回(15年に一度)。
・渤海使の目的…政治・軍事的な提携、貿易(毛皮と繊維)、文化交流(漢詩の競い合い−嵯峨天皇・菅原道真らと漢詩の競作)
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