『渤海国・渤海使』〜知られざる東アジア古代王国の使者たち〜

(%緑点%) 後期講座(歴史コース)の第8回講義の報告です。
・日時:11月8日(火)am10時15分〜12時15分
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 『渤海国・渤海使』
・講師: 上田 雄(うえだ たけし)先生(日本海事史学会理事)
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【上田 雄先生 プロフィール】
・1931年神戸市生まれ。神戸大学にて古代史(奈良時代)を専攻。法政大学(通教課程)にて歴史気候学を専攻。
・芦屋市立山手中学校・西宮市西宮東高等学校・兵庫県立芦屋高等学校・兵庫県立尼崎稲園高等学校、社会科教諭を勤めながら「渤海使」の研究に従事。
・1991〜1998年、阪急電鉄の池田文庫に学芸員として勤務。
・1998〜2006年、石川県富来町・渤海国交流研究センター委員・首席研究員。
(専門分野)…渤海使の研究、遣唐使の研究、暦学の研究、日和山の研究
(著書)…『渤海国の謎』(1992年講談社 現代新書)、『渤海使の研究』(2001年明石書店)、『渤海国−東アジア古代王国の使者たち−』(2004年講談社学術文庫)、『遣唐使全航海』(2006年草思社)、『文科系のための暦読本』(2009年彩流社)

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(%エンピツ%) 講義の内容
1.渤海国とは・・・
・渤海国は奈良時代後半から平安時代前半にかけて、 ”日本にとって最も近しく友好的な隣国 ”で、34回も日本に使節を派遣した
・8世紀から10世紀初頭(698年〜926年)にかけて、唐の文化を吸収して文化国家として繁栄した東アジアの古代国家
・国土:満州から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地域を含む東アジア国家(右の地図を参照)
・建国:中国東北部・高句麗の故地に、698年大祚栄(だいそえい)が王権を樹立
・国王:初代・大祚栄から15代続く
・滅亡:926年契丹族(遼)によって滅ぼされる
・民族:支配者層は朝鮮族。国民の大半は靺鞨(まつかつ)族と総称される民族、中国人、回族など
・文化:「朝鮮系文化の継承」(陵墓制、オンドル暖房、建築様式)。「唐文化の受容」(儒教、国家・官僚組織、都城制、暦制、漢字文化、仏教)。「靺鞨系の文化・民俗」(狩猟生活、毛皮の文化)

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2.渤海使とは・・・
○渤海国から日本へ(日本海を縦断航海して渡ってきた国際使節・遣日本使)
・最初727年〜最後919年…192年間に渤海国から34回の使節
○日本から渤海国へ
・15回の使節…728年〜811年
−うち12回は送使→船を失ったり、日本の船に便乗してきた使節を送り届ける役目
−3回は遣渤海使→日本から単独に渤海に派遣
○渤海使は何を目的に来日したのか
・はじめは、政治・軍事的な提携が目的→当時(727年頃)の東アジア情勢。国際的孤立に追い込まれつつあった渤海国が新羅を牽制するため日本との軍事提携を求めた。(二代・武芸王)
[日本+渤海国」 ⇔ [唐+新羅+黒水靺鞨]
・以後は、経済的な貿易目的…毛皮と繊維の交易
・文化の交流…漢詩の競い合い。 菅原道真、都良香、大江朝綱等の活躍

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3.渤海使の船と航海
A.船
・総トン数100トン〜300トンの大型構造帆船(丸木船ではない)
・乗船人数:40人(前期)〜105人(後期:定格化される)
B.造船地
・日本で建造された船は、少なくとも30隻余と推定。
・日本の造船地…能登福浦港(文献あり)、越後、越前、出雲など
C.港 (右図を参照)
・[日本側]…(文献にでてくる港名)能登福浦港、能代湊、三国湊、角賀(敦賀)港
・[渤海側]…(現ロシア領)ポシエト湾 (北朝鮮)吐号湾
D.航海(安全にして確実な航海)
・航路…日本海を縦断する渡洋航海
・航期…明らかに季節風を利用
(渤海から日本へ)初秋から初冬にかけての季節に渤海国沿岸発→年末から正月頃日本沿岸着
(日本から渤海へ)晩春から初夏の候に出て、日本海を北上し、渤海沿岸に着く
・遭難…当時としては少ない。(86航海で、遭難件数10件、人命損失事故4件)
・2度3度と来日している使節が多い

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4.渤海使をめぐって(エピローグ)
①日本と唐を結ぶ安全・確実なバイパスルート
・遣唐使→209年間に15回(15年に一度)
・渤海国と日本との交流→203年間に43回(5年に一度)
・渤海国と唐との使節の往復…228年間に100回以上(2年に一度)
*このルート(唐⇔渤海国⇔日本)は、人と物と情報が行き交う道
②漢詩を通じての友好親善
・平安時代に入ってからの渤海使は文人を揃えて編成
・都に入ると連日連夜の宴会で、日本の文人たちと漢詩の競作
・ともに漢字文化圏に属している両国。話す言葉は通じなくても、筆談すれば通じる。
・漢詩集『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』などに渤海使と交歓した漢詩が残っている
③純粋に平和的、かつ文化的な国際交流
・毛皮と繊維の交易→暖房の乏しかった当時の宮廷生活には、毛皮は欲しくてたまらなかった。これに対して、渤海側は麻とか絹などの原料に乏しく、生活必需品の繊維製品を日本に求めた。
・経済的利益を優先して、あえて渤海国は日本に朝貢の形をとるようになった。
・船は季節風にのって安全・確実な航海で・・・「送って行って、送られて、そのまた帰りを送って行って・・・」相手国の好意だけを頼りに、自らの船を持たずに海を渡ってきた国際使節は、世界史上でも他に例がないのではなかろうか
5.渤海国との善隣友好の歴史を思い起こそう (上田先生からのメッセージ)
・渤海国は、契丹族の攻撃によって滅ぼされた際、その国土を徹底的に破壊されたため、その歴史を語る文書の類はほとんど残っていない。
・ところが、日本の正史『続日本紀』『日本後紀』『日本三代実録』などには、渤海国王から日本の天皇に宛てた国書や、渤海国中台省が日本の太政官に宛てた牒状などがそのまま記録されている。→渤海人の肉声が日本の文献だけに録音されている
・奈良、平安時代に日本と一番の仲好しであった隣国(渤海国)のことを、そしてその国と200年もの間にわたって展開された善隣友好の歴史を、日本人の常識として広めていきたい。
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(%ノート%) 歴史コースの次回講義(案内)
・日時:11月22日(火)am10時〜12時
・演題: 「倭の五王と古市・百舌鳥古墳群」
・講師: 笠井 敏光先生(文化プロデュサー)