問題点としてだけでなく、人間の持つ当たり前の心理(真理)として

◇◆「人間はそれにこだわるから競争心がある」
 と捉えるのもその人次第
◆◇

「フェイスブック」を始めて、数週間が経ちました。
更新頻度は少なめですが、更新はするようにしています。
「ツイッター」のような使い方になってしまっていて、
このままこの感じで〜?なんて思ったりします。

ブログでもそうなのですが、
「負担にならないように、楽しみながら」
という長続きの理論でやりたいと考えています。

ところで、「フェイスブック」はもともと、
ハーバード大学の学生だった、マーク・ザッカバーグ(たち)が
一種の交際サイトみたいな感じで始めたものですよね。
だから、その傾向を受けていますよね(まあ、当然ですよね)。

学歴・職業(地位の高さ)が重要視されます。
いえ、その傾向に反対したいのではないのですね。
それは人間としての「真理」だと思うからです。
別にアメリカがどうとか日本がどうとかの事柄でもないと思います。

人間として恥ずべき感情とか、そういう事でもないのではと考えるのですね。
そう、人間の持つ真理なのです。
人とはそうなってしまうものなのですね。
もしそうでなければ、
勉強する必要もキレイになる(カッコ良くなる)必要もなくなるでしょう。
みんながみんな歴史を刻む技術者やモデルに
なるわけではないわけですから。

その「真理」に反対するのも生き方だと思いますし、
「真理」に組するのも生き方だと思います。
人間は見てくれや肩書ではないと捉えるのも人生哲学だと思いますし、
いや、重要な部分だろうと捉えるのも
人としての考え方に沿っていると思います。

以前、ある方が、
「イジメをするのもエネルギーが必要でそれはそれで認めなくてはならない」
というようなことをわたしに話しました。
その時は「何言ってんだか」と反発した記憶がありますが、
今となっては、わかるような気がします。

人生のモロモロに正解や不正解はなく、
真理とは人間の造り出すものであって、正解ではなく、
宗教も哲学も文化も風俗も、人間の持ちうる部分なのだと思います。
正解でも不正解でもなくです。

「フェイスブック」をこれからも続けようと思います。
垣間見たり、考察したり、行き詰ったり、
その部分は人生の意義だと思うのです。
『人は考える葦である』とはよく言ったものですね。
『人間の持つカテゴライズ観は人を詳しく知ろうとする心理(真理)である』
そう捉えたら「フェイスブック」反対派も楽しめるかもしれませんね。
わたしは「ひきこもり」で「病気持ち」で「高卒」ですが、
人をみたいと強く考えています。
根強くなれるかどうかはまだまだこれからだと思っています。