関が原の人々 「田中 吉政」

平成23年12月6日(火) 午後の部で実施。
場所:明石市男女共同参画センター
主催:(財) 兵庫県芸術文化協会
講師:茨木一成氏 (日本歴史学会会員)
 田中吉政は、農民の出身で農業の事については詳しく、
豊臣秀吉とは話しが良く合ったようです。そのため、
武功の方はあまり有名ではありません。豊臣秀吉の
家臣でありましたが、関が原の戦いでは東軍に
つきました。しかし、秀吉の時には近江八幡市に八幡堀を掘り、岡崎城主では、岡崎城を近世郭に整備し、7つの町を掘りで囲む田中堀を築造します。この技術は徳川家康も高く評価していました。東軍勝利後は戦後吉政の兵が三成を捕らえました。その一連の武功に対して、家康より筑後32万石の国持ち大名に抜擢されます関が原のあと、筑後柳川に入国し、庄屋百姓に耕地を広めることを奨励します。そして、柳川城から海を眺めていて海を埋めることに注目し、田畑とします。また、隣国の鍋島直茂に頼み、陶業を起こし柳川焼きの始まりとなりました。柳川の掘割を整備することで水運や稲作の用水路を整備し、近代的な街作りを行い水路以外にも田中街道と呼ばれる街道の整備を行いました。
また吉政はキリスト教にも寛容で、特に近代的な医術を採りいれました。この荒地の開発には主に罪人を使い、松や柳も植えて燃料にしたそうです。
この現代につながる都市計画は、現代でも高く評価されているそうです。