『光明皇后伝説と竹取物語』

(%紫点%) 後期講座(文学・文芸コース)(9月〜1月:全15回講義)の第11回講義の報告です。
・日時:12月15日(木)午後1時半〜3時
・場所:すばるホール(3階会議室) (富田林市)
・演題: 「光明皇后伝説と竹取物語」
・講師: 桧本 多加三(ひのもと たかぞう)先生(雑誌「堺泉州」編集長)
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[竹取物語]概説*
・成立時期…平安時代前期に成立(806年説から956年説まで150年間さまざまな説がある)
・作者…不詳(諸説あり⇒源順、僧正遍照、源融、斎部氏など)
・中国・四川省伝説.「斑竹姑娘」(はんちくこしょう、バンクーニャン)の影響…女主人公・斑竹姑娘が竹から生れていること、五人の若者が斑竹姑娘に求婚し、五つの難題が出されていること。
・仮名で書かれた現存最古の文書…漢文体先行(漢文からの翻訳?)
・「源氏物語」(紫式部)…”物語の出で来はじめの祖(おや)なる「竹取の翁」

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(%エンピツ%) 講義の内容
1・泉北の「光明皇后伝説」
・大阪府和泉市国分町に、光明皇后誕生地伝説が残っている。
・「和泉市国分の槇尾川近くに浄福寺があり、智海上人が修行中尿意を催し、縁先から用を足したとき、女鹿が尿をなめて出産したのが美しい光明子だという話。やがて大きくなった彼女が田植えを手伝っているところへ、槇尾山に参詣した都の大臣藤原不比等が通り掛かる。光り輝く美しい少女(照田光田伝説)がいて、養女にして都に連れ帰った。・・・大臣の養女となった少女は、光明子と名付けられ、宮中に上がって天皇のそば近くに仕え、聖武天皇の后の光明皇后となりました。」
・地名に残る⇒「女鹿坂(めじかさか)」、「照田・光田」
・足袋のはじまりの話…光明皇后の足は獣の形(後には「小さい足」)をしていたので、鹿の皮で作った足袋をいつもはいていたという。これが足袋のはじまりだ、という伝説まで!
2.光明池の地名
・昭和初期、食料増産のために、朝鮮人労働者を使って、女鹿坂の東に巨大なタメ池を造ることになり、光明皇后生誕地から池の名称を”光明池”とした。

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3.「竹取物語」
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*右の絵は、「竹取物語絵巻」(チェスター・ビーティー・ライブラリィー所蔵)で、竹取の翁が竹の中のかぐや姫を見つけて、家に連れ帰り、箱に入れて嫗に育てさせる場面
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(1)当時の状況と藤原氏の巨大化
①関係年表
・694年(持統朝):藤原京(〜710年)
・697年(文武朝)
・708年(元明朝):藤原不比等(藤原鎌足の息子)が右大臣
・710年( 〃 ):平城京(奈良)に遷都(遷都を推進したのは不比等)
・720年(元正朝):藤原不比等没。⇒藤原氏に対抗する皇族勢力から長屋王が台等、右大臣となり政権を握る。
・729年(聖武朝):長屋王の変(藤原4兄弟に謀反の疑いをかけられ、自害)、藤原光明子が聖武天皇の皇后に。
・737年:藤原4兄弟病没(天然痘)
②藤原不比等
・藤原不比等の娘(宮子)を文武天皇の夫人にし、その間に出来た子が聖武天皇。
・聖武天皇の夫人に光明子を入れる。
・藤原不比等は、聖武天皇にとって祖父であり義父。
(2)ものがたりはじめ−「竹取物語」
①「物語の出で来はじめの祖」(紫式部)、つまり初めての物語文学
②竹取物語は、竹の中から美少女が生れる話と、権力者の求愛にもこたえず月に帰っていく話から成立。
③求愛してくる権力者の仲で、最も手の込んだ悪質なウソをつく人物(蓬莱の玉の枝−車持皇子(くらもちのみこ))こそ、藤原不比等とされ、最高権力者を”最悪の人物”として描いている。

五人の求婚者に難題を与えて、それを手に入れた男性と結婚するという話
(1)石作りの皇子には仏の御石の鉢…大和国でニセ物)
(2)車持皇子には蓬莱(ほうらい)の玉の枝(根が銀、茎が金、実が真珠の木の枝)…計画的にニセ物⇔藤原不比等がモデル−(策略に長けた車持皇子は、工匠(たくみ)達に頼んで要求どおりの玉の枝を作らせ、嘘の苦労話までしてかぐや姫に迫る。さすがにかぐや姫も窮地に追い込まれるが、代金請求に来た工匠達の出現で嘘が露見し、失敗に終わる)
・車持皇子には、 「心にたばかりのある人にて」と記し、悪意をむき出しに表現しているので、この物語は奈良朝・平安朝における藤原氏の権勢を愚弄するものであると考えられる。
(3)阿部右大臣には火鼠(ひねずみ)の皮衣(かわぎぬ)…大金はたいてニセ物買入れ
(4)大伴大納言には龍の頸(くび)の玉…難破
(5)石上中納言には燕の子安貝(こやすがい)…愚直、同情的

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4.実際の光明皇后と伝説化
【光明皇后】
・大宝元年(701年)〜天平宝字四年(760年)
・藤原不比等の娘
・聖武天皇の皇后。本名は安宿媛(あすかべひめ)、その光り輝く美しさのため光明子とも称された。
・仏教への信仰厚く、聖武天皇とともに、東大寺、国分寺、国分尼寺などを設立。
・貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善をおこなった。
伝説
・光明皇后は、仏の慈悲を実践するために、千人の病人の体を洗ってやりたいという発願をされた。最後の千人目は、全身に膿を持つ悪疾(ハンセン病)の患者であった。皇后は厭うことなく背中を流し、さらに患者に乞われるまま膿まで吸い出してやった。そうすると、みるみるその体は黄金色に輝き、阿閃如来(あしゅくにょらい)となって飛び去った。

何故そこまで神格化、いや、仏の化身ほどまで伝説化しなければならなかったのか
・光明子は、藤原不比等の娘で、一般人であった。それが、皇族以外から初めて皇后の位についた(以後、藤原氏の子女が皇后となる先例となった)。藤原氏への逆風もあったとき、光明子の皇后を正当化するために、藤原氏側が伝説を作り上げたのかもしれない・・・。
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(%ノート%)文学・文芸コースの次回講義(案内)
・日時・場所:12月22日(木)午後1時半〜3時半[すばるホール(富田林市)]
・演題: 「いきいき朗読」(詩…北原白秋、金子みすず、李白など)
・講師: 野村 康子先生(朗読講師)