当事者として幸せに生活するために

◇◆言葉では簡単ですが大変難しいことです◆◇

先日、神戸市で当事者会がありました。
わたしは「NPO法人 グローバル・シップス こうべ」
所属しているので、法人が行う「しゃべり場」や
「イベント事」には出来るかぎり参加させていただいています。

ところでそのOFF会でメンバーの一人である
わたしにインタビューを行ってきた院生さんと
対話論モードになりました。
その中での印象的ないくつかを挙げます。

●当事者として、生活費まで稼ぐのは大変難しい。
 対価を得れるようになっても、生活費(経済的自立)までには
 なかなか及ばない。親の支援が必要となるのが
 多くの(ほとんどの)当事者の現在なのであろう。

●当事者をちゃんとスタッフの一員として見てくれる事業所なり
 機関も稀有な存在である。何かしらカベがあるのが現実である。
 それは考え過ぎか、それとも本当にそうなのか…。
 とにかく、ここで当事者はさらに葛藤や生きづらさを抱えてしまうようだ。
 当事者は弱い部分が多々あるので意識過剰ともいえるのだが。

●プライベートで充実させる精神的ゆとりへの転換は
 経済力や地位があってこそ成り立ちやすくなるものでもある。
 もちろんすべてにおいてそうではないが。
 ここで重要なワードとなる恋愛は、30歳代(ひきこもり第2世代がこの辺り)
 にとって結婚を意識せざる得ないものであって、
 その結婚(恋愛)対象としてみてもらうのは大変難しいことなのである。

●自分なりの価値観、ゆとり感、幸福感を感じ生活していくしかない。
 確立するという論点ではなく。そのうち社会が変わるという他人任せでは
 さらに鬱々としてしまうかもしれないので、「アクティブ」という言動を実行させたい。
 だが、当事者にとっては大変難しいライフスタイルでもある。

神戸からの帰路につき、「当事者」としての生活は
繋がりさえあれば、決して悪いことだらけではないと感じました。
一般の方々や当事者同士、それぞれに繋がれる場があれば良いのにと考えます。

わたしたちは「さびしがり屋」なのですね。
「情けないなあ」とのお言葉よくわかります。
ですが、こころの病や過去のトラウマ等が理由としてあり、
そのような気持ちの状態になりやすいのですね。
かといって誰かに「依存」しては、さらに生きづらい状況になりますよね。
バランス良くという観点も難しい場合もあるかと思うのですね。
 
わたし個人は現在、誰にも「依存」していませんが、
昔はそのような時期もありました。
今は依存していない理由として
「回復」と「成長」と「リア充」が挙げられると思います。
でもそこまでの状態にある「当事者」は極めて少数派だと思います。
これからも対話や考察の中で
「当事者(その人)」なりの幸せを考えていきたいと思います。