ここ最近、不登校や引きこもりの子ども達を支援する
NPOの方々の話を聞いている。
彼/彼女らの活動のキーワードは二つ
ひとつは居場所、
そして、もうひとつが自己肯定感
この自己肯定感と言う言葉、
非常に心地よい響きがあり、頻繁に聞くのだけど
どうも説明を聞いてもしっくりこないのです。
基本的には、文字通り自己を肯定する感覚の
ことで、不登校や引きこもりの子ども達に
学校では評価されない能力を引き出してあげようと
言うことであり、それは音楽等芸術や文化、スポーツなど
カリキュラムに無かったり、あっても重視されていない
教科を中心に行うことを指している場合が多い。
あるいは実際に工場などで働くことだったりする。
確かに音楽等芸術分野で才能を発揮して、その道に進む
ことができる人は良いだろう。
すなわち学校では余り重要とされていないけど、うまく行けば
能力主義社会の上位に位置づけられ、尊敬も得られる
職業だ。
またその道でメシを食えなくても趣味として行いながら、
通常の社会活動に復帰できる人も良いかも知れない。
能力がある=お金を稼ぐと単純化して考えれば、能力主義
社会では下位層ではあるが、趣味として音楽があるから
と本人が下位層でも納得できる状態と言える。
しかし、この分野でも出来ない子どももいるだろう。
でも、これって結局は否定したはずの能力主義の世界に
再び戻していることになりはしないのだろうか?
自己肯定感とは、ただ今、自分が自分として生きていることが
素晴らしいと思えることであり、
能力主義の階層の中のどこかに居場所を確定させること
ではないと思うのだけど、彼/彼女達自身も自分達のしていることが
自分達が否定したはずの能力主義を強化する方向に
作用していることに気づいていないのだろうか?
最も確信的に自己肯定感を能力主義社会の中に
自分の居場所を確定させることだと思っている人もいて、
その人は地元の清掃会社などに子どもたちを派遣
させているのだけど、その仕事って(仕事には貴賤は
無いというけれど)基本的には人が嫌がる仕事で
しかも完全な無償労働か通常の半分ほどの報酬で
やらせている。
これで自己肯定感が得られるのだろうか?
でも、これって教育と言う衣をかぶった搾取労働ではないかと思う。
しかし、既存パラダイムで構成された言葉で
違うパラダイムの価値観を表現することなど不可能に近いので、
仕方が無いと言えば仕方が無い。
ただ自分達のしていることが実は自分達が否定したはずの
能力主義社会を強化する方向に作用する場合があることに対して
自覚的にならないといけないと思う。
ソーシャルワークの母、メアリ・リッチモンドの言葉を最後に捧げます。
あなたたちは、自分たちの目の前にいる人たちを、社会から
落ちこぼれた人間だと思っています。
彼らを、なんとか社会の最底辺にまで押し戻し、社会の片隅で
生きていけるようにしようと腐心しています。
しかし、それは間違いです。
彼らにこそ、社会の明日があるのです。
あなたたちは、この社会のあり方を変える戦士を養成しているのですから