こういうことがありました2

〜2月15日の続き〜

タウン誌を作っている、と人に話すと、たいていは「そうですか。じゃあ、フリーペーパーですか」といわれる。
そうなのだ。確かに今の世の中、情報誌は無料で配布するのが常識になりつつある。
情報誌に限らず、ある程度の読み物までもフリーの時代だから、たかが32ページの冊子を「いいえ、これは300円で売っています」というと、「あ、そう」と、冷たい反応をされる。
それでも、私は雑誌として300円で販売するスタイルにこだわっている。

「タウン誌を作りたい」。
そう思ったときに、有料か無料か、タブロイド判の新聞か冊子形式の本か、ということはだいぶ考えた。
新聞社での勤務経験がある私にとっては、タブロイドはかなりの魅力だ。しかし、それを折込等で無料配布する場合は、広告収入は欠かせない。発行ペースも最低月一回は必要だろう。それに、広告のためのヨイショ記事はあまり書きたくない。私が思ったものを素直に表現するものを書きたい。
そう考えていったら、自然と冊子にしよう、しかもきちんと販売する形にしようと、気持ちが固まって行った。
そう考えていたころに、第一回目の銭湯への飛び込み取材活動が始まっていたのだ。

銭湯(文化湯)のご主人の話は、私にとっては新鮮なものだった。
その銭湯は戦後の焼け跡で商売を始めたこと。このあたりは戦争で丸焼けになっているので、銭湯だけでなく、ほとんどの商店は戦後に店を始めていること。昭和20〜30年代には、大手の工場や町工場がたくさんあって、人も多く、銭湯は毎日、開店から閉店まで、大忙しだったこと。その他、当時はこのあたりに何があったか、どんな人が住んでいたか等々。
これを聞いているうちに、私はこの地域に住んでいながら、あまりにもこういう身近な歴史を知らないと感じた。ということはたぶん、この周りのマンションに新しく移ってきた人もそうに違いない。
かつてはゼロメートル地帯といわれたこのエリアに、今、私たちが安全に住んでいられるのは、この銭湯のご主人のように、昔から住んでいる人たちがいろんな努力を重ねてきたからだ。こういう話こそ、れこそ、伝えなければならない!そう感じたのだ。

とかく、タウン誌というと「情報」の部分が重視される。どこそこのランチがおいしい、いつからいつまで、どこそこで安売りをやる、といったような。私ももちろん、そういう情報を軽視するつもりはない。
しかし、私がタウン誌で何をやりたいのか、と突き詰めたとき、こういう街の人の「物語」を今の人たちに伝えたいと思ったのだ。
すると、当初から思っていた「有料か、無料か」という迷いも、すっきりと片がついたのである。つまり、「単なる情報でない、私の取材にもとづいて書くものであれば、うちにしか載らない独自のものが書けるはず。だったらそれを、きちんとした形で販売し、読んでいただこう」と。

何も、そこまで力まなくても、冊子を販売するのは、私はごく当然のことだと思っている。
今のように、そこらにありふれているフリーペーパーにはうんざりする。特に、堂々とテレビ広告や新聞広告まで打って、活字離れ世代を引き寄せるための雑誌が、無料で配布されている現実を痛々しいと思う。本や活字の価値を、自ら下げているようにしか思えない。100円でもいいから、販売してほしいのだ。

何はともあれ、そうして、2002年の7月に、たった1回の取材で「すなしま」の基本方針が決まったのだ。

〜以下、続く〜

写真は、夕べの私の夕食。
砂町銀座の屋台で買った焼き鳥、そめやのピーナツ味噌、松葉屋の煮卵と、砂町銀座のお惣菜で済ませました。