「性犯罪について」に貴重なご意見をいただいています。
また、関連記事もTBいただいています。
 『加害者は被害者である』(ゴンゾーさん)
 『加害者は被害者である。』(NPO活動アート化プロジェクト)

子どもに対して、身体的、心理的、性的に搾取し、権利を侵害することは、
何も特別なことではありません。
子どもに対して「意に沿わないことを強制する」「大人の身勝手で行動を制限する」
「暴力的に服従させる」「自立を阻む」「大人の欲求の解消に利用する」などを
することで、それは、ほとんど、「愛情」にすりかえられて常態化しています。
大人側が子どもの「権利を侵害している」とは全く気づいていない場合と、
分かっている場合があります。

「気づいていない場合」は、大人に気づかせるのは難しいでしょう。
「分かっている場合」も、分かっていてもやめられないことが多いです。
加害者(虐待している人)はそのジレンマを抱えながら苦しんでいます。

子どもを性的に搾取する場合、おそらく「いけないこと」と分かっていることが多いように思います。
けれど(だから)、子どもに「愛情」と執拗に刷り込みますし、
「秘密」にすることを強く強制します。
加害者が子どもにとって身近な人であるほど、「愛情」「秘密」は強く子どもに刷り込まれます。
加害者が見知らぬ人の場合、いやがる子どもを強制的に、という場合と、
子どもにうまく取り入って、何かの交換条件にするなどして、
子どもに抵抗されないようにする場合もあります。
この場合、子どもの身近な人と同じように「ご褒美」「秘密」が子どもに刷り込まれます。
被害者の子どもに、快感が伴っている場合があります。
そのため、身体的暴力やネグレクト以上に、子ども自身に混乱を招きます。
搾取されているのに快感が伴うわけですから、自分にとって良いことなのか悪いことなのか、
子ども自身が分からなくなってしまうのです。
この混乱が子どもに与える影響は、計り知れないものがあります。

子どもの立場に立てば、分かって子どもを性的に搾取している人に、
「絶対にやめてください」と切に言いたい。
しかし、だからと言って、「誰を」「どのように」見るか、感じるか、は誰にとっても自由です。
自らの「自由を守ること」と相手の「権利を侵害すること」はどちらが優先されるのか?
そんなことは明白なのです。
しかし、それでも、この問題は、そう簡単にはいかないようです。
それが「性」の難しさなのです。

コメントの答えになっていないように思いますが、
またこの問題は引き続きエントリーしていきたいと思います。