「ニート』って言うな!

本田由紀・内藤朝雄・後藤和智 (光文社)より

第2部『構造」—社会の憎悪のメカニズム
自由な社会の構想

共通の望ましい生き方(共通善)を
無理強いされることなく
それぞれにとっての望ましい生のスタイルと
望ましいきずなを生きることができる状態が
自由な社会状態です

〜中略〜

自由な社会では
互いに相容れない多様な生のスタイルを生きる人たちが
平和に共存しなければなりません
他人への迫害は厳しく禁止されます
ですから街や職場や学校で
肯定的に受け止めることができない
別のタイプの生を生きる人たちが存在しているのを
いつも目にして生きることになります
自由な社会では
このことだけは我慢しなければなりません

それに対して
(企業であれ、学校であれ、地域コミュニティであれ、
共同体であれ、国家であれ)
特定の透明な社会が強いられる場合には
特定の生のスタイルが共通善として強いられ
それ以外の多様な生のスタイルが
絶滅させられがちです
そして個々人には次のような
きわめて耐え難い事態が降りかかってきます

〜中略〜

こういった1つの透明な社会が強制される苦しみと比較して
自由な社会で強制されるのは
なじめない者の存在を許す我慢(寛容)だけです
「存在を許す」というのは攻撃しないという意味であって
「なかよくする」のとは違います
むしろ「なかよく」しない権利が保障されるからこそ
「存在を許す」ことが可能になります

自由な社会では攻撃することは許されませんが
嫌悪を感じる者との間に距離をとる権利
(あるいは生々しいつきあいを拒絶する権利)が
保障されます
自分にとって醜悪な者が大手を振って生きているのを
見る事に耐えなければならないだけで
自分がそのスタイルに巻き込まれる心配はありません
この安全保障が
人間社会に絶えず自然発生し続ける憎悪と迫害の力を弱め
1人1人が自分なりの仕方で
美しく生きる試みを可能にします

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私は子どもたちに向かって
「いじめはいけない、クラスのみんなと仲良くしなさい」と
言うことはできません
私自身がクラスのみんなと仲良くしたことはなかったし
近所のみんなと仲良くできないからです
そんな表面的な建前を繰り返しても
正直な子どもの心には何も届かないか
まじめすぎる子どもを苦しめるだけです
「自分がきらいだと思う子でもいじめはダメ」です

だから「友達100人できたかな?」という歌も
あまり好きではないです
友達はたくさんいればいいんじゃなくて
1人でもできればいいし
今できなくてもいつかできるだろうと
子どもには時間の流れがあること
あきらめず希望を持つことを伝えたいです

<サトイモの大きい葉っぱにきれいな朝露が光っています>