いじめを苦に自らの命を絶つ子どもをこれ以上生まないために

「いじめ」を苦に自ら命を絶ってしまう子どもが、後を絶ちません。

そして、そのことを受けて、「いじめはなかった」と学校や教育委員会が報道発表し、
親や家族の神経を逆なですることが、少なくないようです。

事故・事件、いじめによる自殺で子どもを失った親と法律家の会が兵庫県にあります。
そこでも「情報開示」の問題が言われていましたが、
なかなか「本当のこと」は明らかにされませんし、
被害者本人にとっての「事実」と周辺の大人、加害者にとっての「事実」は、同じではないようです。

亡くなってしまった子どもには直接聞けないわけですから、
はじめから情報は偏っているのです。
調査そのものが、「一方的」であることに、調査にあたる人は気づいているのでしょうか。
その調査発表を見聞きし、また被害者のご遺族のお話を伺うたびに、
いつも、亡くなった子どもは今起こっている議論を天国からどんな風に感じて見ているだろう?と考えます。

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「いじめ」に介入する立場の人へ

たくさんのいじめを受けている子ども、「死にたい」とつぶやく子どもの声に耳を傾けている者から、
子どもの代弁をさせてください。

いじめを受けている子が「いじめ」だと言ってるのであれば、
客観的に見て「いじめ」かどうかを判断することとだけで終始しないで欲しいと思います。
客観的事実を探ることは、すべての基本です。
でも、「いじめられている」という気持ちは、あくまでその子どもの「主観」です。
その「主観」を感じとり、その子が「何を」「どんな風に」苦痛に感じているのかを
感じ取って欲しいのです。
「客観的」に大岡裁きをすることは、その子どもにとっての「真実」から大きくはずれます。
そして、そのような「裁き」は、結果的に子どもを死に追いやることにつながります。

まずは、その子どもに「どうして欲しい?」と尋ねてみてください。
もしかしたら、聞いてもらえるだけで何も対処を望んでいないかもしれません。
直接的に関与して欲しいわけではなく、間接的に見守っていて欲しい場合もあるでしょう。
あるいは、見た目にはわからなくても、悪質な暴力を受けていて、すぐに保護が必要な場合もあります。
そして、「いじめ」を打ち明けてくれた子どもならどんな子どもも、
かかわる側がしっかり話を聞いていけば、「○○して欲しい」という気持ちを語ります。
その「対話」を大切にして欲しいです。

客観的に、「いじめ」が認められない場合もあります。
もしかしたら、ちょっとした誤解から「いじめ」と感じたのかもしれません。
その子の過剰反応かもしれません。
いじめたと言われる側には全く「いじめ」の認識がないかもしれません。
全くの狂言である場合もあるでしょう。

それでも、その子どもがそう感じた、嘘をついただけの理由があるはずです。
その理由にたどりつけば、きっとその子どもは大きく成長するでしょう。
「事実」を追求しながら、結果ではなく「プロセス」を大切にして欲しいです。

「プロセス」の中でしか、「真実」は見えてこないと私は思います。