北浜地区緑地護岸整備事業アドバイザーに応募

塩竃市で募集している北浜地区緑地護岸整備事業アドバイザーというのに、作庭舎の上原さんらと応募してみることにしました。
ズバリ、コンセプトは「何もない場所をつくること」。これからはじまる場所、というプロジェクト型の公園のあり方を提案しようとこのひと月あまり、何回か打ち合わせをして企画書を作り上げました。
これまでの公園のあり方から言えばほとんど無謀ともいえる提案のようにも思えますが、これに乗ったとかいう話になったらさぞ面白いだろうということで、まとめてみました。いったいどうなるか楽しみです。

以下、もう今日で締め切りなので企画書の一部(私が担当したコンセプト部分)を転載します。

***********************

事業に対する基本方針及び取り組み方針
「新たな公共空間としての北浜緑地 〜コトづくりの拠点としての場をつくること」

日本では開国以来、特に戦後において、国としてのアイデンティティや「豊かさ」を、経済的な豊かさ、強さに見出そうと、あらゆる分野にわたって、まずは量的な豊かさを重視する姿勢が社会の基盤として重んじられてきました。それは近代化の名のもとに、具体的目標としては先駆者たる西洋諸国にキャッチアップするという、ある意味素朴なロマン主義のようなものであり、西洋風の合理的価値観と生活様式でより多く社会を覆えば、それが豊かさの指標となり、数字に表せるものを多く見出すことこそが豊かさの根拠であると考えられてきました。
しかしそうした「信仰」が曲がり角を迎え、近代的な経済万能主義では立ち行かないことが決定的に判明したのが、日本ではバブル経済の崩壊であり、その後の「失われた10年」と呼ばれる90年代です。もちろん、そこへ至るまでには多くの近代へのカウンター・パート(対抗要素)が現出していたわけですが、獲得した量的豊かさを手放すほどには、我々は賢明ではなかったといえるのかもしれません。それは、社会を整合的に説明し、価値に根拠と理念を与える「近代」という大文字の物語が崩壊した時期であり、そこを通過して2000年代を迎えた我々は、もう既に、素朴にアメリカやヨーロッパをお手本として「諸外国(欧米)では…」などとまことしやかに語ることはできませんし、かといってすべての価値など相対的なものに過ぎない、とアイロニカルに構えて、結局何ひとつ能動的な行動に移すことができない、というエセ批評家的ニヒリズムに堕するべきでもありません。
では、我々が考える2000年代はどういうものかと言えば、それは文化が牽引する世紀です。そこでは、その土地その土地のもつ記憶や文化が、数値化されたり、単純に絶対化されることなく、具体的な記憶や共感として再発見され、ファッションやグローバルな価値観といった記号よりも、そこに関わる人同士の関係性こそが問題とされます。
実際、我々が求めているのは、我々の土地がもつ固有の価値であり、そこに住む我々がそれといかに関わっていけるかということではないでしょうか。それは近代主義のような、誰にでもあてはまるようで誰にもあてはまらない一般的な価値でもなければ、個人の自由を叫ぶあまり、かえって無責任な集団を作り出してしまうような個人主義でもありません。
その土地その土地の文化、我々の文化をつくるためには、しかし逆説的ではありますが、その土地の住人ではない者、「他者」の存在が必要です。そしてまた、社会を関係性としてとらえる視点が不可欠です。それはその土地の固有性を絶対的なものとして称揚するのとは違いますし、個性を軽視するということでもありません。
そうした社会、コミュニティを「発見」し、再評価し、それにもとづいて、どこでもない、ここに住む我々とその小さな物語を構築していくこのポストモダンの時代を牽引していけるのは、量的なものを問題にする経済主義ではなく、質的なものを問題にできる知性であり、それを具体化し、支えていくことこそが、これからの公共性に求められていることだと考えます。
それは例えば、「ハコもの」と呼ばれる、すでに誰かがどこかで完成させたものを再構成的に作り上げることを目標とする態度に対し、何かができあがるかどうかすら目標とせず、そのプロセスや協働そのものが目的とされ、そこにどうかかわることができたかが問題とされる態度です。それはまた、動員数を尺度にした、わかりやすさや予定調和性に重きをおいたイベントに対し、「見せる/見せられる」という固定的な関係性を打ち破り、地域住民が時間と手間をかけて、本当にやりたいから実施するというプロジェクト型の取り組みであったり、土地の歴史や文化を専門家から与えられたものとして具体化していくような方法論に対し、「今・ここ」に生きている住民が主体となり、専門家を逆にアドバイザーとして使う、横断的リテラシー能力の獲得を方法論とするものです。
我々の基本方針は、近代的な「オリジナリティ」や、構築をベースにしたものではありません。すでにある個々の物語を組み替えたり、関係性を持たせたりする、コーディネートやネットワークに重きを置いた知に基づくものです。それは建築やテクノロジーなどのハード重視・専門性偏重の姿勢に対する、誰もが参加できるプロジェクトなどのソフトや住民の参加を重視したあり方です。本来地域住民のものであるべき事業が、住民の手を離れて久しい中、それらを本来的な意味での地域のものにする方法は、そうした知を獲得し、これを行使することで社会に参加していく以外にはなく、そうした実践を見につけていく場、文化拠点としてのハブをつくっていくことしかありません。北浜緑地整備事業は、それを通じて、市民が自分たちの公共空間に関心をもち、そこへ主体的に関わっていく契機になるようなプロジェクト、それ自体が公共空間となるべき場として位置づけるべきであり、単に物理的な場をつくる事業と位置づけられるべきではないと考えています。
以上のような我々の姿勢とこれに基づく提案は、これまでの公園や文化施設、公共空間とは大きく異なった発想のものにならざるを得ないでしょう。前例がないことへのためらいや理解の困難さもある程度予想されます。しかし、すでにできあがった場所を与えることから何が生まれるかわからない場を設定することへ、言い換えれば経済から文化へ、モノをつくることからコトをつくることへと、率先して歩を進めなければ、本当の意味での豊かさなど、ついに獲得することはできないでしょう。当緑地のあり方は、塩竈市が、宮城県が、ひいては日本国が、こうした新たな市民参加の場としての公共性を、公園行政にもたらす、全国的に見ても画期的な事例となるべきではないかと考えます。

基本的なデザインの方針(コンセプト)
「10年先を見通す市民の拠点」

1.曲木神社を中心とした「これから始まる」場
当該緑地は、かつて千賀の浦と歌われ、美しさの代名詞であった「景観としての歴史」、松尾芭蕉がこの地より松島へと船出した「文芸や旅の舞台としての歴史」、マグロの町・塩竈を支えた「港湾としての歴史」など、有史以来、歴史が重層的に折り重なって価値を刻んできた場所です。
そうした歴史の中でもひときわ象徴的なのが、曲木神社とその島です。我々はこの歴史的遺産を中心に緑地のデザインを行い、観光桟橋と魚市場という機能に満ちた両地点をつなぐこのエリアを、ひとつの崇高で空虚な場として位置づけることで、人々が愛で、集い、何かを考え、生み出していく場にできるのではと考えます。
古来、崇高な場所というのは、最も空虚な場所でもありました。しかし、それこそが逆説的に最も尊い場所であり、実質性のないことが最も有意味であったりするわけです。そうしたメタファーを、さらに未来へ向かって反転させるというのが、我々が考える当該緑地の基本コンセプトです。空虚であるがゆえにそれは、これから始まる「コト」を歓待するのです。

2.市民参加の拠点としての唯一の建造物
曲木神社が効果的に見える配置にデザインに加え、これと対峙するようにして、どんな目的にも対応でき、逆に言えばどんな目的ももたないような、「機能フリー」の施設をひとつだけつくります。市民参加の拠点となるべき空間、それこそ崇高な空虚さとでもいうべき施設です。初めから何かが過度に与えられては、そこで地域住民が文化を育むことができませんし、最初の投下予算のみが潤沢で、その後の運営資金に関しては微々たるものになってしまう結果、施設を維持するのが精一杯で、何ら創造的な活動の一翼を担うこともできなくなってしまう例は枚挙にいとまがありません。
塩竃市には、すでに「ふれあいエスプ塩竈」や「壱番館」「市民体育館」「菅野美術館」など、充実した文化・スポーツ施設が存在しており、逆に足りないものは何かといえば、人口密度が日本有数というこの市にあって、何もない空間、これから始まる場であるというのが我々の認識です。
こうした視点は、ベネッセによる直島プロジェクトや新潟県による大地の芸術祭など、文化による地域再生と響き合いながら、しかもさらに先を行く思考と言えるかもしれません。
緑地内の植樹に関しても、この木を植えることは本当に必要なのか、そうした議論を専門家まかせにせず、市民自身が行うことが、市民参加の「コト」づくりとして再評価され、実行されます。市民が休みの日に、議論をしたり、いっしょに汗を流しに、緑地へやって来るような場づくり。こうして時間と参加を経てつくられた場所は、とりもなおさず、誰のものでもない、市民の手による、本当の意味での市民の場所となり、新たな市民参加のモデル、公共空間のあり方となることでしょう。

3.10年かけてつくるプロジェクト型の事業
必要なのは、そうしたこれから何かが始まるという「場」と、そこで行われる「コト」をうまくマネージメントしていく「ヒト」です。ワクワク感を起こさせるような「コト」。それを行っていくことで、NPOをはじめとする塩竈市民の企画力や運営能力が蓄積されていくような実験的な場。誰もが入ってネットワークを築いていけるようなオープンな場づくりこそが、この「遅れて来た」最も歴史ある場所にはふさわしいのではないでしょうか。そこで重要なのが、コーディネーターの存在です。そこで要求される能力は、公園管理者のようなハード面だけでは全く足りません。
例えば、札幌のモエレ沼公園は、彫刻家イサム・ノグチによるグランド・デザインで知られる公園ですが、ここでは現在、地域のNPOと連携しつつ、アートを媒介にした「コト」づくりが継続的に行われており、住民参加と地域の創造拠点という、公園の新たな姿を提案しています。
また、当の塩竃市においても、本町通り商店街にアーティストが入り込み、大漁旗という塩竈らしいシンボルを用いてクリスマスツリーを市民と協働でつくりあげた結果、翌年にはそれを住民が自分たちのものとして独自に運営し始めています。
このように、我々は当該緑地に関し、目に見えるハード面だけでなく、いかに公園をマネジメントしていくかという不可視の面、「無形のデザイン」ともいえるソフト面が非常に重用であると考えています。したがって、従来とは逆に、まず公園のグランドデザインがあるのではなく、さまざまな企画を受け止められるような「空虚な」状態でスタートし、それに関わった住民によって選択的に支持されていくものだけが目に見えるかたちとして残っていき、結果として緑地のグランド・デザインが徐々に立ち上がっていくような、「ワーク・イン・プログレス」による取り組みを、少なくともひとつのプロジェクトとして10年間続けていくことを提案いたします。10年後のその場所は、いったい他の誰のものでもないまさに市民の場所となり、塩竈という街のかたちを真の意味で具現化するような場となることでしょう。