交流、交流、交流の日々、そして確信!“障害”という言葉を人につけてはならない!

ご無沙汰しています。ライターの弾丸ひろこです。(%バイク%)

だいぶブランクができてしまいました〜。(^^;

そのエクスキューズではありませんが、私は実は、東京都内の某特別支援学校のPTAのリーダーをしています。この1月から3月、つまり3学期は、いわゆる「地域交流」「理解促進」の催しが目白押しでした。

PTAレベルだけでなく、地域のNPOレベルの活動も合わせると、ほぼ毎週のように、主催したり、参加したりしていました。

このペースは、かなりハードで、夫から「いつも駆けずり回って落ち着かないなぁ」と散々小言を言われましたが、それでもやはり、充実した日々でした。

おおげさに言うと、私はいつもこうした活動に「使命」、自分の命を使うに値する確かなものを感じます。

じゃ、「地域交流」「理解促進」の活動って何か‥。

PTAレベルでの例を挙げると、特別支援学校には「交流授業」といって、地域の小学校の生徒さんたちが特別支援学校にやってきて、一緒に授業をする機会があります。

交流授業をする地域の学校は決まっていて、「交流校」と呼びます。

その交流校の生徒さんたちと一緒に、そのお母さん方も特別支援学校にいらしていただき、交流授業を見学していただきます。

その後、私たち特別支援学校のお母さんと交流校のお母さんたちが、交流授業の感想を語り合う時間を設けています。

つまり、子供だけでなく、お母さん同士の交流も同時に行うようにしているのです。

あるいは、区の小学校のPTA連合会に協力をお願いし、交流校だけでなく、区内全域の小学校のPTAに特別支援学校への見学と理解促進のレクチャーへの参加を呼びかけたこともあります。交通アクセスの悪い辺鄙な場所にある学校にどれだけ参加してくれるか心配でしたが、参加定員をはるかに上回り、思いもかけず大規模な催しになったということもありました。

この地域の子供同士、お母さん同士の交流の日々の中での発見、感動を、その都度このブログに書く余裕がなかったのが本当に悔やまれてなりません。(このブログも3月で終了ですものね)。(%ショボ女%)

今回、ひとつだけ、ある場面を紹介します。

「交流授業」を見学した後、交流校のお母さんたちと特別支援学校のお母さんたち合わせて20人弱ですが、保護者控え室で交流授業見学の感想を一人ずつ順番に語っている時のこと。

「最初は緊張しながらも、授業の最後の方はどの子がどの学校の子かわからないくらい打ち溶け合っている子供たちの姿に感動した」、

そんな感想が異口同音に語られる中、ふと気がつくと、交流校のお母さんたちも特別支援学校のお母さんたちも皆、涙を流している。

子どもたちの柔軟な心のあり方を目の当たりにし、
その姿に突き動かされ、
膝をつき合わせながら感想を互いに語り合う中で、
母親たちもまた、自分の子供にハンディがあるなしを超え、
子育てをしている同じ母親として人間として、
深い感動や気づきを共有できた、

そんな密度の濃い時間でした。

私は以前、活動の中で一番力を入れているのは、子供向けのユニバーサルなイベント作りであり、その理由のひとつに大人はもう手遅れだからと書きました。

でも、大人も決して手遅れじゃない。
きちんと、ハンディのある大人や子どもを理解する場を設ければ、
子供よりちょっと時間がかかるかもしれないけれど、
心のバリアは必ず溶けていく。
今までそういう機会がなかっただけなのだ、
そう実感した日々でした。

総務省のある調査によると、この国で「障害者」を手助けしたことがない理由として、
“「障害者」を見たこともなければ触れたこともないから”と答えた人が8割
だというデータがあります。

つまり「差別以前」なのです。見たことも触れたこともないのですから。

だから、まずは見る、出会う、そしてきちんと理解してもらう場を、あらゆるレベルで設けること。これは、まず当事者から働きかけるより他ないのです。

奇しくも、東京都では、特別支援学校に通う子どもが居住地校に副次的に籍を置く副籍制度がスタート。

今学期うちの子も、ハンディがなかったら通っていたであろう、自宅から徒歩5分の小学校で副籍デビューを果たしました。

詳しくはまたいつか機会があったら書きたいですが、ここでも子供たちの心の柔軟さを実感、副籍先のクラスの子供たちのキラキラした目が忘れられません。

素晴らしい制度だと思うのですが、特別支援学校でこの副籍制度に参加することを望む親は決して多くないと以前も書きました。

「障害児」の世界を見にきてもらうことも、その世界からよっこらしょと、子供を外に出すことも、親にとっては並大抵のエネルギーではないのです。

お子さんのハンディによっては、それが不可能な場合もあります。

だから、なんとかそれができる私たち親子(幸いにも、うちの子は、私に似て交流するのも大勢の注目を浴びるのも、どこか新しい場に行くのも大好き!)は、それができない方たちの分も頑張って、地道にやっていきたいと思っています。

そして、そして、「障害児」改名に関するアクションもあきらめません!!

こうした地域での理解促進の活動の方にエネルギーを使い果たし、改名キャンペーンに時間を割けなかったのが本当に残念ですが、

まさにその活動の日々の中で、理屈抜きで、素朴に、どのような子供であれ、人であれ、人間に対して「障害」という言葉をつけるべきではないということを改めて確信しています。

「障害」という言葉は人につけてはいけない言葉なのです。
それに何の疑問も持たない社会や人の心にむしろ「障害」があるというべきです。

改名キャンペーンをして本当に良かったことは、当事者以外の人も熱く賛同してくださる方がたくさんいたこと。(%ニコ女%)

呼ばれる方も嫌なら呼ぶ方も嫌なのだとわかり、随分と励まされました。ありがとう、本当にありがとうございます。

どのような分野であれ、いわゆる日本における「当事者の運動」って、当事者以外の人はかかわりにくいようですね。

下手にかかわると、ヒステリックな当事者に「あなたに何がわかるの」とばかりにピシャリとやられる。やがて、その運動の理念も活動も、使われているボキャブラリーさえ、当事者という「狭い囲い」だけにしか通用しないものとなる・・・。

しかし、東京大学大学院教授の上野千鶴子さんも「当事者主権」という本で書いていますが、今のこの「超高齢化社会」の日本で、福祉をめぐる問題に関して、純粋に当事者でない人なんて果たしているのでしょうか?

私はこの問題を、当事者か否かにかかわらず、関心を持った全ての方、その人自身の問題として、よりオープンに提起していきたいと思います。

いずれにせよ、「障害児」改名キャンペーンは、もう一度戦略を練り直し、何らかの形で継続していきますので、少しでもご関心のある方は、どうぞこれからも伴走してください!

宜しくお願いします。

ご精読ありがとうございました!