<いじめ学>の時代 その1

内藤朝雄著 柏書房より

<欠如>のはじまり
私たちは一人ひとり固有の世界を開きながら生きています
これは私たちが生きるための地図、生の地図なのです
しかし「世界が開かれている」感覚は
常に我々と共にあるわけではありません
残念ながらこの感覚が壊れてくる瞬間から
我々は自分という存在を見失う危険に
にわかに肉薄することになります

「貧乏」も「愛情の不足」も「多忙」も「災難」も「不名誉」も
同時進行で「世界がうまく開かれて」いればそこそこ耐えられるものです

そしてそれに対して「世界がうまく開かれていない」状態は
輪郭のぼやけた「苛立ち」「ムカつき」「落ち着きのなさ」「慢性的な空虚感」
といった形で私たちのうちに現れます

つまり何が問題でどうすれば充足できるのかもわからないままに
ただ「何かが足りない」と言う危機の感覚だけが昂ぶってしまうのです
私はそのような条件で起こる
意味が定まらない生が根腐れしてしまった感覚
いわば存在論的な不安定を総称して
<欠如>と呼んでいます

「欠如」という単語の意味を国語辞典で調べると
「あるべきものが欠けていること」とあります
私の言う<欠如>は食べ物がなかったり名誉がなかったり
という個々の状況とは違っていますが
まさに「本来あるべきもの(=世界がうまく開かれている感覚)」が
「欠けている」ことが1番最初の前提になっています

<ユキヤナギがきれいです>