2008年4月5日夜、母、大岩臣華(みか)は安らかに永眠した。
母は最期まで絵を描き続けた。入院して間もない2月のある日、ぼくは音楽療法士の女性が母の病室でエレクトーンを演奏するのに居合わせた。入院前の数か月、絵を描けなかった母が、再び、音楽を得て絵筆をとるようになっていた。寝間着の上に毛糸のチョッキをつけてベッドに腰かけ、小さい食膳台に向かう。演奏とともに、痩せて血管だらけの手が躍動し始める。これが習慣となって、旅立ちを間近に控えた4月3日にも、いつものように絵を描いた。その時の力強い2作が遺作となった。
手術後18か月の間に母が描いた小品の中から50点を選んで、遺作展を開くことになった。これは母と一緒に計画したことだ。その時、病床の母は、手帳に、2か月先の母の日に家族一同が会すること、そして6月後半に個展を開くことを、書き入れ、同時に心にもしっかりと刻み込んだのだ。母の病床を取り囲んだきょうだいのひとりが、「オフクロが生きていても死んでいてもやるんだからね」と、からかうと、母は、「まったく、もう、あんたたちは私が死んでもいいと思っているんだから!」と、ほがらかに返したものだ。
母は軽々と飛びたった。生きる歓びが彼女を去ることは、とうとうなかった。これらの絵がそのことを物語っている。
辻 信一(臣華ポストカードブックあとがきより)