子どもと大人の<あいだ> 愛されて知るいのちの尊さ 青木信人

青木信人より

中学生どうしの公開討論会に参加したことがあった。
近隣の各中学校から代表者が一人ずつパネリストとなって
討論が進められた。

話題はいつしか少年犯罪に及び、いのちの尊さをめぐる発言が相次いだ。
彼らの意見は共通していた。
いのちが尊いのは、たった一つきりのものだから、
つまり、一度きりしか生きられない人生だから
もっと大切にすべきだ、というものだった。

確かにそのとおりと思う一方で、
果たしてそれだけの認識でいいのだろうか、という思いが募った。
一つのいのちをかけがえがないものとして感受するのは誰なのか。
その点をもっと問題にすべきだと思った。

いのちのかけがえのなさは、その人自身にとってだけでなく、
むしろ誕生以来そのいのちを見守ってきた親など身近な人々にとって、
そのいのちがすでに否応なく代替不可能なものに
なってしまっているという点にこそあるのではないか。

自分のいのちを取り巻くそうした人間関係の網の目に気づくこと。
もしその気づきがないならば、
私たちは自分のいのちにのみ執着する自己中心的な心性だけを
強めてしまうことにもなりかねない。

心から愛されることで、私たちは、
自分を愛してくれる人(例えば親)の心を、
自分が場合によっては傷つけてしまうかもしれないという
厳粛な事実に気づく。
もし自分が過ちを犯してしまったら、
あるいは、もし死んでしまったら、
その人はきっと深く悲しむに違いない。
その「気づき」こそが、自己あるいは他者への破壊衝動の
歯止めになるのではないか。

してはいけないという禁止より、
するべきではないという説諭より、
そんなあなたを見ると私は悲しくなるという静かな訴えこそが、
力を発揮する。

人は所詮、自分のためだけに生きることはできない。
他者のために生きる・他者と共に生きることでしか、
自らの生を全うできない。
そのことに気づくためには、
自分を愛してくれる他者と出会うことが不可欠なのだと思う。

<ギボウシがきれいです>