第15回『始末のいいもの 廃材で沸かす五右衛門風呂』(7/23掲載 京都新聞)

小学校時代の教科書について鮮明に覚えているページがあります。“私たちはごみの中に住んでいる”という見出しの付いた、家族の団らん風景が描かれた図です。なかなか衝撃的なタイトルですが、そこには「テレビ—十年後にはゴミ」、「テーブル—二十年後にはゴミ」といった説明が付いていました。「新聞—明日にはゴミ」などはご愛嬌で、「ゴミ箱のゴミ—すでにゴミ」、「ゴミ箱—十年後にはゴミ」にいたっては、子供心に「すごい表現だなぁ」と感じた記憶があります。
ところで我が家の風呂は薪で沸かす、いわゆる“五右衛門風呂”です。当然、薪を用意しなければならないのですが、安全な廃材(古い電柱や枕木などは防腐剤やタールが塗ってある)であれば、何でも使います。解体した家の柱などはもちろんですが、ある日、古い木製の酒樽をばらしていて感心させられました。底を抜き、竹を編んだタガをはずすと、一枚一枚の板を連結していた竹釘が現れたのです。つまり、燃やすことのできるものからでしか出来ていなかったのです。そして燃やした後は、一握りの灰しか残りません。なんと始末の良いことか。プラスチックの樽ではこうはいきません。
使い捨て時代を考える会は、始末の悪いものに囲まれた生活を考え直そうと、三十年前の京都に生まれました。ちょうどその頃に生まれた私は、文字通り“使い捨ての時代”を生きてきました。私自身、ともすると使い捨てる生活に流れてしまいがちです。あらためて自分の生活を見つめ直す必要を感じている今日この頃です。