KYのすすめ 「異なる他者」とつくる社会

竹井 隆人(政治学者)より

昨今いよいよ言葉が溢れ、それへの感受性が失われている
世には時流に乗った言葉のみが幅を利かせ
その勢いに人々はただ呑まれているのだ

『コミュニティー』なる言葉もそうだろう
『仲良し』の奨励、又はそれによって成り立つ
『仲良し社会』の意で多用されるようだが
この語感のよさゆえに『コミュニティー』に
疑念を向ける人はいないだろうし
そうした世間の『空気』のおもねる知識人たちは
いたずらに『コミュニティー』を弄するのだ

しかし『仲良し』を強化すればするほど
その社会が排外的になるのは無論のこと
内部では異論者を『KY(空気を読めないもの)』として
「粛清」することともなる

この大勢順応が社会を支配すれば
人々は自らが社会を主体的に担う自由を放棄する
だからこそ、この『社会を作る自由』が眠りこけた社会は
戦前だろうが戦後だろうが政治学者の丸山真男が評したように
『無責任体制』に堕してしまうのだ

『コミュニティー』重視を叫ぶものは「社会をつくる自由」を
踏み潰すことにいささかも頓着せぬほどに悪者であるか
それに気づかぬほど愚者であるかのどちらかに違いあるまい

〜中略〜

ただ『仲良し』を言うだけなら幼児にさえできる
必要なのは人々が社会に対する順応を放棄し
『KY』とならざるを得ない状況を作り出すことではないか
このまま人々が『社会をつくる自由』を発現しえぬ
つまり社会に何ら責任を負えぬのならば
人民主権を意味するデモクラシーという言葉も
虚妄のまま果てるしかあるまい

<タチアオイが可憐な花を咲かせています>