他人のつらさを自分のつらさに

「軋む社会 教育・仕事・若者の現在」本田由紀、双風舎 より

先日、「働くこと」について若者が語り合っている
座談会の記録を読んで、
その参加者のひとりの口から出たいくつかの言葉に、
胸がふさがれる思いがした。
それらの発言をした若者は、新規学卒就職が回復した2007年に、
威信の高い大学を卒業し、広告会社に入社した男性である。

ます、私の目を引いたのは、
いわゆるワーキングプアであったり、
働けなかったりする若者たちに対して、
彼が「見て見ぬふり」「知らぬが仏」という
気持ちを持っていると述べたことである。
「そういう人たちがいる、だから何?って感じですかね」と。

まあ、彼が正直な人間であることだけは確かだろう。
そして、このように感じている若者が、
彼だけでなく、たくさん存在するのも確かだ。
しかし、それならば一層、他者の置かれている苦しい状況への
想像力や共感力が欠ける若者を、
大量に育て上げてしまっていることについて、
私たち年長者は厳しい自戒を要する。

私が胸をふさがれる感を抱いたのは、
この男性に「見て見ぬふり」をされている人々の
現在と将来の苦境という観点からだけではない。
彼自身の将来についても、きわめて危うい面があると感じたからだ。

この男性が、立場の違う他者に対して
「見て見ぬふり」をしていられるのは、
「やっぱり自分の半径10メートル以内ぐらいの人にどう見られるか
というのが、自分のモチベーションになっている」からである。
彼は、経歴や境遇において、
同質性が高く、狭い範囲のコミュニティの中で、
自分が認められることによりすがって生きている。
信念や、人生の目標などはないのだという。
私が危惧するのは、
そういう狭いコミュニティにおける人間関係というものは、
いつ反転して悪意や排斥となって現れるかもしれないということだ。
そうなった時、彼は、何に希望を求めて生きていくことができるのだろう。
(中略)
他者に「見て見ぬふり」をしつつ、自分の現状に満足している彼が、
ひとたび耐え切れられないような状況に陥った時、
今度は「見て見ぬふり」をされる側となり、誰にも助けを求められず、
自らを否定するしかなくなることを私は憂う。
そして、他者のつらさと
(いつか遭遇するかもしれない)自分のつらさを通底したものと感じ、
互いに手を差し出すことができる人間を育てていく
教育と社会の必要性を切に思う。

<ナデシコがきれいです>