独身時代、結婚後、そして母親になってからも現役を続け、
「金」にこだわった谷選手。
残念ながら今回は、有言実行とはいかなかったけれど、
でも、大した「女性」だと思う。
私は、手放しでその活躍を称えたい。
「人」ではなく、敢えて「女性」としたのも、大きな意味がある。
私は、当ブログでも、性別で人や人の行動を判断することを極力避けてきた。
なぜなら、人は「男−女」だけではなく、どちらの性別に属さない人もたくさんいるし、
また、「男−女」の二分法で成立している現代の日本社会に窮屈さや
息苦しさを感じている一人として、
そして、公文書の性別記載欄の撤廃を求めてきた立場として、
何かにつけ、色付けされてしまう性別のカラーを薄くしたいという思いが強くあるからだ。
性別にかかわらず、活躍している「人」は、皆輝いている。
それだけでいい、はず。
でも。
今回「女性」としたのは、私自身がかつて抱えていた葛藤と同じような葛藤を
私よりもずいぶん年下の谷選手が、直面していると知ったからだ。
今も、ん十年前も、社会状況も、人々の意識も、たいして変わっていないのだ。
女性が、女性として社会で有意義に、自分らしく生きていくためには、
いつも、「両立」という二文字の壁が立ちはだかる。
これは、いくら制度や法律が新しくなったり変わっても、
あまり変わらないのだなぁと思う。
かつての私は、時には家族と衝突し、
友人達からもいやみを言われ、
社会的にも非難を受けながら、
「両立」を貫いてきた一人だと自負している。
今となっては、家族との衝突も減り(なくなりはしない)、
友人も仕事を持ち始めたのでいやみを言わなくなったし、
社会的にも非難されることも減った。
どちらかというと「両立」していることで賞賛されることが増えた。
でも、「賞賛」も、私にとっては、「違うでしょ」という思いがある。
私は、確かに、睡眠時間を削ってでも自分の時間をとってきたし、
衝突したら話し合ってきたし、
家族を傷つけないように知恵を働かしてもきた。
身内にも、思い切り世話になった。
筆舌しがたい(大げさではなく)葛藤と戦いの連続だった。
でも、人から「賞賛」されることには、違和感を感じる。
誤解しないで欲しいのは、「私の何を知ってるの?」というような、
被害妄想的な類のものではない。
「あんたはエライ!」という賞賛こそが、
女性を、従来の女性としての生き方に閉じ込める意識だから。
賞賛しないで、私のような生き方も「当たり前」と思って欲しい、
という思いがあるからだ。
私は、世の女性達をリードするつもりはない。
ましてや、モデルになったつもりもない。
でも、私が望んでもないのに、時に先駆者のように言われ続けてきたのも事実。
私は、私が生きたいように生きてきただけで、
これからも生きたいように生きていきたいだけ。
谷選手について、「言い訳をしなかった」とテレビで評価されていた。
「言い訳」とは、「母親になって不利な状況がいっぱいあったにもかかわらず、
その不利な状況を前面に出さず、若い選手と混じって戦った」ということなのだろうか?
言い訳をつけたいのは、世間の方だろう。
たぶん、谷選手も、ただの選手としてがんばってきたはず。
「母親」としての看板でがんばったわけではないはずだ。
でも、でも!
実際に、「母親」になった人が社会で活躍するのには、
いくつもの試練や壁が立ちはだかることは、私もよく知っている。
だからこそ、今回だけは「すばらしい女性」と思った。
女性であることの役目や立場を、世間から背負わされ、
がんばった選手なのである。
しかし、いつの日か、結婚しようが、母親になっていようがいまいが、
オリンピックで金メダルをとった人を「選手」として賞賛したい。
そう願いを込めて、今は「女性」として谷選手を称えたい。
余談だけれど。
私が労働者として勤務している職場は、性別による仕事の差は全くない。
女性だからって力仕事も免除されない。
未婚・既婚・子持ちも一切関係なく、
土日の出張命令も、宿泊出張命令も、残業も容赦なく来る。
もちろん、家庭の事情を自己申告すれば、配慮はもらえる。
つまり、自己申告しなければ、性別や家庭の状況は一切区別なし。
いい職場だなって思う。
そして、もっと自慢したいのは、
「私にはできません」と女性を盾(言い訳)に、仕事を拒否する女性職員は、
私の職場には一人もいない。
ある意味、私にとって、ずっと待ち望んでいた環境で仕事ができるようになって、
「女性」が仕事をしていく大変さとありがたさ、やりがいを、
改めて思い知っている今日このごろ。
谷亮子さん、銅メダルおめでとう。
「女性」だけではなく、西宮を愛する者としても、いつまでもエールを贈り続けます。