余暇後退の時世を憂う 薗田碩哉

ゆとり喪失の昨今である。
まずはフルタイムの勤労者にゆとりがない。
働きづめに働いて過労死する中高年、
若い世代では過労が引き金になってうつ病にかかり、
挙句の果ては自殺に至るケースが後を絶たない。
他方、この十年ほど増加の一途をたどり
今や全勤労者の3分の1を占める非正規雇用者の中には、
労働時間の長さに見合う所得が得られず、
厳しい生活条件にあえぐ若者が少なくない。
彼らは何よりも先行き不安な状態の中で
心の余裕を持ち得ない状況にある。
秋葉原の歩行者天国を一瞬にして
殺人者地獄に変えてしまった若者の背後に、
ゆとりなき社会の暗い影を見いだすのは私ばかりではなかろう。

私は「ゆとり」を支える基盤として
「余暇」の重要性を主張する者である。
わが国では余暇と言えばあまった暇、人生の些事に
過ぎないと思う人が中高年はもとより、若い世代にさえ少なくない。
だが、余ったもの=不要なものという余り感は間違っている。
余ったものこそ勝ちあるものであることは、
余暇の獲得こそが投資の目標である
(そうでなければ欠損を出し事業は失敗する)ことを考えても明らかだ。

余暇という自由な時間の獲得は人生の目標に他ならない。
営々と働いた後には、ついにリタイアして余暇時代に入ることが
すべての勤労者に約束されている。
この老後の時間は単なる付け足しの余りものだろうか。
最後の余暇を意義あらしめ、
そこに人生の仕上げの時を見いだすことができなければ
人生は大いなる徒労に終わってしまうではないか。

余暇は個人が個人になる時間であり、
個人の存在を守るための牙城に他ならない。
誰もが労働によって社会に参加するのは当然だが、
他方で余暇という不可侵の「自分の時間」を確保して
自らを養い、家庭を育み、自由な個人として
様々なアソシエーションに参加することを保障されるのが
人間らしい暮らしと言うものだ。

<フヨウが大きな花を咲かせています>