言葉と感情 「腑に落ちる」まで待つ

子どもと大人の<あいだ> 青木信人より

小2のA君は、ある日、二歳の弟B君と喧嘩になったが、
父親が介入して、A君が折れる形で決着がついた。
30代半ばの父親はその後のフォローのため、
A君に語りかけていた。
「お父さんだって、BがAみたいに話してわかるようになったら
叱るよ。でもね、Bはまだ言葉がうまくわからないんだから、
Aはそこのところ、わかってあげなきゃ」
ふてくされた態度をとっていたA君は、
噛んで含めるように語りかける父親の話に
次第にうなずくようになっていた。
そんな父親の姿勢は、当初私の目には、とてもほほえましく映った。

ところが、しばらく見ているうちに、かすかな違和感が生じた。
確かに、この父親の姿勢は、悪くない。
昔ながらのカミナリおやじより、はるかに「民主的」だろう。
しかし、話せばわかるという、この父親の基本的スタンスは、
いったい相手が何歳くらいから通じるものなのだろうかと、
ふと疑問が沸いた。

「わかる」ということを、頭で理解することに限定するならば、
ある程度の語彙力を獲得して
日常的な対話ができるようになれば可能かもしれない。
しかし、「腑に落ちない」と言う言い方があるように、
人は頭だけで納得するわけではない。
感情的にも納得できるかどうかが、本当は大事なのではないか。

頭では納得できても、気持ちが言うことをきかない。
そんな時は、その気持ち、その感情を、
しっかりと見つめ直すことこそが先決なのではないか。
そうした過程を大切にしないと、
いつの間にか、言葉と感情は遊離してしまう。

だから、まだ幼さが残る時期に、無理に理性的に振る舞うよう強いるのは、
あまり好ましいことではないだろう。
頑是ないのが、子どもの子どもたる所以なのだと思う。
その頑是ないのにシビレを切らし、頭ごなしに怒鳴りつけたり、
果ては虐待を加えたりするのは言語道断だが、
だからといって、感情を無視した「正論」の押し付けも、
まだ社会的に無力な子どもにとっては、
時に大きな抑圧になることもあるのではないか。

<ハナカタバミがきれいです>