しかし今回の「美術ワークショップ」に関しては、担当の渋谷さんがたまたま見つけてくださり、上司から「どんなことをするんだ」と言われて私のホームページなどから資料をつくって説明し、実施にいたったそうで、本当にこうした「つなぎ手」の方の大切さを感じます。
おそらく学校教育の中から美術や図工が削られている昨今、学校外におけるこうした美術ワークショップのようなニーズが地域にはたくさんあるはずで、しかもしれは今後ますます増加していくと思います。そうした受け皿として地域の公民館などの施設がこうした県の予算を使って小さいながらも実際に体験できる場を用意していくというのは非常に有効なことだと思います。

私が思うに、「感動」の量というのは量れないのではないかと思います。それは人の命の重さと同じで、数や量ではないんじゃないかと思います。だからこれだけのことをしたのでこれだけの効用が増大した、みたいなものにはならないのではないかと思うのです。
たとえば、自分の中の「感動」についてさえ、あの感動とこの感動を比較する、ということは可能だろうかと思うのです。どれもそれぞれが私にとって必要な、かけがえのない感動であるように思えるのです。
そしてアートはそうした感動を生み出すひとつの手段だと思っています。だからそれがどれほど社会的にインパクトを与えたかとか、そういう数量的なことに違和感を覚えるのですが、それは感動の総量などという考え方がそもそも意味不明だからではないかと思うのです。
まちや地域でアートをやる意味はここにあると考えています。そこに踏み込むこと、直接かかわること、いっしょにやることは、他人事を自分事にします。そうして生まれた何かは、そこにかかわった人にとってかけがえのないリアリティをもっていて、それは数量化できず、だからほかと比較することもできません。あるのは、比べようもない「それ」だけのような気がします。

やくらい文化センターを後にし、「やくらい薬師の湯」へと向かいます。
小野田には以前、「やくらいガーデン」のコスモスを見に来たことがあったのですが、このお湯には入らずに帰ったので今日はぜひとも入ろうと思っていました。

というわけで、お風呂に入って帰ります。
来年が楽しみです。

門脇篤